ぬえと獅子王(後編)

 

 たった数十年。妖怪の尺度でみればほんのわずかな時間で、世は大きく様変わりした。かつての平家の栄華は遠い昔。後白河の大天狗も姿を隠し、武士の棟梁となった鎌倉の源氏嫡流も、わずか三代で途絶えたという。源平の争乱が過ぎたと思えば、今度は源氏が兄弟同士、御家人同士で殺し合い、その次は上皇が乱を起こす。ほとほと、人の世の絶えぬ争いに愛想が尽きたというのが、京を去った化け狸団三郎の弁。
 そんな団三郎から、共に佐渡に来ぬかという誘いを断ったのが、ぬえには昨日のことのように思い出せる。
 なぜそうしたのだろう。明確な理由は、自問しても見つからない。
 けれど。ぬえには、妖怪〈鵺〉たる自分がみやこを離れて生きていけぬであろうことの。漠然とした確信があったのである。
「…………」
 ぬえは今日もまた、朽ちた廃寺の一角で変わり映えのしない空を見上げ、喉奥を鳴らすようにして呻き、吐息する。
 そんな少女に、すぐ傍らから答える声があった。
『なあ、木ノ下』
「なんだよ」
『いい加減どっか出かけようぜ。ずっとこんなところじゃ退屈だ』
「五月蠅いな。そんな気分じゃないよ」
 ぬえは邪険に応じるが、その傍らで声はなお続く。
『なーって。なんか腹も減って来たしさー。なーなー、木之下ー』
 いかなる不思議か、声はすれどもその主の姿は見えぬ。が、馴れ馴れしい口調は、少女と同じ年頃の少年のものと聞こえた。生意気な言い分に、ぬえはついに牙を剥き出して怒鳴る。
「なにが腹だ。そんなもんないだろ、お前!」
 言葉と共にぬえが掴んだのは、傍らにあった黒漆糸巻拵の鞘だ。古びた一振りの大太刀がちゃり、と小さく鍔を鳴らした。そう。声の主はこの大太刀、源三位頼政の佩刀、獅子王である。
「あと、馴れ馴れしくわたしを呼ぶな」
『なんだよ。木ノ下は木ノ下じゃねーか』
 不機嫌なぬえに対して、獅子王は相変わらずの軽い口調。そこが我慢の限界だった。
「うっさい、黙れ!」
 がんと鞘を屋根に叩きつけるよう放り投げ、少女は大太刀に背を向けて座り込んだ。黒漆拵の鞘は大きく跳ね、半ばほどで折れた刀身を晒す。
『あー! おいっ! 何するんだよ、拾えよ!』
「……知るか」
 転がる大太刀はなおも鍔を鳴らして叫ぶが、ぬえは無視した。
 大和刀工の千住院派になる三尺五寸五分の大太刀は今日も饒舌だ。彼が言葉をもったのはつい先日の事であるらしい。九十九年がどうだとか、喪が付くのがどうだと自慢げに話されたが、ぬえは我関せずと聞き流していた。
 共に過ごすようになって知ったことだが、彼が人の姿をとっていられるのは一日のうちそう長い時間ではないらしい。ま二つに折れたことで、武器としての機能を半ば失っているせいもあるのだろうとぬえは考えていた。
『もっと大事に扱えよな! 木ノ下!』
「うるさいな、いい加減にしないとへし折るぞ!」
『へん、できるもんならやってみやがれ、化け物女!』
 獅子王の口喧しさにぬえはうんざりと吐息する。
(こいつが、ほんとうに頼政の刀なのかよ……)
 かつて平家全盛の世にあって、歌壇にすぐれ文武に通じたとして知られる、摂津源氏の源頼政。彼は、帝から拝領したこの黒漆拵の太刀を人に見せることを好まなかった。鵺退治の英雄、源三位頼政が自らの功績を鼻にかけずに振る舞うことを、世の人々は謙虚であると讃えた。が、その真実は、彼の屋敷で姿を変え名前を変え、共に暮らすぬえへの配慮であったことは想像に難くない。
 それでも敢えて。彼の最期となった宇治川の合戦で、頼政がこの太刀を腰に佩き、摂津源氏・渡辺党を率い先陣を切って戦に臨んだのは――絶望的な状況の中で、たとえ虚飾とても己の力となるありったけを注ぎ込み、わずかな希望にでも望みを託そうとしたからであるのか。いまとなっては、知る由もない。
(余計なお世話なんだよ、どいつもこいつも)
 あの日の団三郎の誘いは、あるいはそれを見越しての事だったか。あまり面白くない想像に、ぬえは不機嫌に牙を鳴らして寝返りをうつ。
「ったく、面倒ばっかり掛けやがって、役立たずめ」
『役立たずとか言うんじゃねえ! 俺はじっちゃんのために――』
「そんな様で粋がるなよ、なまくらめ」
『なんだと!』
 彼の言葉が正しいなら獅子王はぬえよりも年長であるはずだが、その口調は生意気な少年そのもので、とてもそんな威厳は感じられない。
『いいぜ、相手になってやらあ。泣いても知らねえからな』
 どろんと煙をあげて、獅子王が人型をとる。癖っ毛の金髪は怒気をはらんでふわりと逆立っていた。正体不明の化け物と、黒漆拵糸巻の大太刀が睨みあい、ぶつかり合う視線の間に火花を散らす。
 いつもの調子のいつもの喧嘩。ここしばらくの日常となっていた取っ組み合いが今まさに始まらんとした、その時。
「――って、おい、どうした木ノ下?」
「しっ、静かにしろ!」
 人気のない廃寺に、半透明の幽霊を引き連れて。
 白い髪に片頬の傷。背には足元に引きずるような大太刀と、腰の短刀。
 二刀を携えた半人半霊の男を二人が見つけたのは、まさに、そんな時であった。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 その男の風体はあまりに異様であった。四尺七寸という途方もない長さの大太刀を佩き、背腰には同じ拵えの腰刀。右眼から頬までを深く抉る刀傷、さらには傍らに従えた半透明の霊体。
 だがそれよりも何よりも、常人とは纏う気配が違う。色濃く引きつれるのは死の匂い。男の魂魄はなかば死人と化している。彼の傍らに浮かぶ半透明の霊体は、死に誘われた浮遊霊ではなく、彼自身の半分死んだ魂である。
 ぬえは警戒も顕わに、獅子王の本身を庇うように手元に引き寄せた。獅子王の抗議も待たず、己の纏う正体不明の濃度を高め、正体不明の種に練り上げた力を込める。
 切り離した種を、ぬえが男に向け放たんとしたその刹那。
 鎮ッ――
 やおら、涼やかな鍔鳴りの音。
 先程までの騒音に比べれば、はるかに小さなその音は――静かに、廃寺に響き渡った。
「…………っ」
 ざわり。ぬえは背筋が粟立つのを感じていた。驚愕の叫びをかろうじて飲み込む。
 男の放ったわずか一音にて、あたりに立ち込めていた濃密な妖気が全て消失していたのだ。一陣の風が煙を吹き散らすように。陽射しが雨雲を切り拓くように。
 廃寺は、怪物〈鵺〉の潜む魔窟から、朽ちた古刹へと姿を変えていた。
「あ、おいっ」
 やおら立ち上がったぬえの袖をつかみ、獅子王が短く叫ぶ。折角隠れていたのに何をしてるんだと眉を逆立てる彼には答えず、ぬえはただ茫然と目を見開き、男を凝視する。
「お前、今――何をした」
 ぬえの白い顎を、つうと冷や汗がつたう。
 声がか細く途切れ、握った拳の震えが抑えきれない。
 妖怪となって久しく感じていなかった、怖れが、少女の身体を支配していた。
「斬っただけだ。お主の纏う正体不明とやらをな」
 隻眼を廃寺の上に向け、事も無げに男は言う。その意味するところを知りぬえは戦慄した。男の言葉が真実であるならば、彼は今、形も意味も定かでないぬえの放った〈怖れ〉を見定め、抜く手も見せずに断ち斬ったのである。
「話をしに来たのだ。隠れられていては話にならん」
「――お前」
 ぬえの瞳孔が蛇のように細まる。
 少女の決断は迅速だった。呪詛の礫を雨霰と男めがけて投げ付け、同時に廃寺の影が作る闇の奥に身を沈ませる。
 ぬえの持つ正体不明の力とはその実体、いるといないの境を曖昧にぼかし、恐怖を煽る力だ。居もしない背後の足音、暗がりに潜む怪しい影。どこに潜むかもわからぬ相手への恐怖。それらが〈鵺〉の力の源である。
 影の中に潜み、滑るように男の背後に回り込んで。鋭く繰り出した短槍の切っ先と、左右三対の歪な翼の連撃が、男の胸を貫く――かに、見えた瞬間。
 必殺のはずの槍の穂先は、何の前触れもなくすぱんと断ち切られ。赤い甲殻の爪鎌と、牙を剥きだす青い蛇までもが、体液を撒き散らしながら斬り飛ばされる。
「――――ッッ!?」
 離れた地面にからからと転がってゆく槍の切っ先を、視線だけで見降ろして。ぬえはぎり、と歯を軋らせた。
「気を付けろ」
 男は事もなげに淡々と告げるばかり。彼は黒衣の袖の中にゆるく腕組みをしたまま、大太刀の柄に手をかけてすらいない。
 にもかかわらず。飛び出したぬえの衣は大きく裂け。
 左右の翼とともに、踏み込んだ脚の腿から下までもが両断されていた。
「そこは先程、俺が斬った。迂闊に踏み込めば死ぬぞ」
 感慨も感情もなく、ただ事実を読み上げるばかりの男の言葉。
 それが意味するのは、ただ一つの事実。
 男の太刀が、未来永劫に渡る時間すらも超えて、この空間を斬り裂いた――より正確に言えば、今もなお斬り裂き続けているということだ。地面に転がったぬえの足が、不定形にぼやけ、煙となって消えてゆく。ぬえは苦悶のままに膝を押さえて、尻餅のままに後ずさった。
「木ノ下!」
「ばか! 出てくるな!」
 ぬえの制止も構わず、獅子王が瓦礫の陰より飛び出した。怒りに逆立てた金髪をなびかせ、折れた大太刀の鋭い切っ先を逆手に握り男へと斬りかかる。
 が、男はわずかな体捌きだけでそれを躱してみせた。

 ――鎮ッ。

 再度、涼やかな鍔鳴りの音。不可視の斬撃を受け地に塗れる少年の前で、男は少年の手から奪い取った太刀の切っ先に視線を向ける。
「……元は刀であろうと、人型を得れば、人と同じ脆さを得る。まして、折れ欠けているというなら猶更だ。手入れもなしに刀は刀であることを保てぬぞ」
 衝撃に咳き込み、苦悶を上げて地面に伏す獅子王。
 男は静かに告げ、太刀の切っ先を彼の目の前に放り投げた。
「……なんだよ。なんなんだ、誰なんだよ、お前はっ」
 脚を失い、もはや一歩も動けぬまま、戦慄とともに訊ねるぬえに対し。
「妖忌。――魂魄妖忌。冥府よりの使いだ。黒漆糸撒拵大太刀・獅子王。源三位頼政の未練を斬りに来た」
 胸元に提げた六連の輪を示し、静かに男は告げた。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

「……冥府の、使いだァ?」
 ――ぎしり。
 突如響いた重苦しい音が、牙を軋らせるぬえの口元から発せられていたことに、彼女自身が気づいていたか。
「できるもんなら、やってみろよ!」
 跳ね起きるや否や、ぬえは萎縮しかけていた全身を奮い立たせ、漲らせた怒気を一斉に撃ち放つ。呼び起こされるのは黒雲。二条の森より湧き出し、御所を包み、みやこを恐怖へと陥れた、妖怪〈鵺〉の力。
 地を這うように滑る大蛇の群れ、不規則に弾かれ軌道を変える鏃。呪詛を纏う鋭き矢は、恨弓、源三位頼政の弓。獅子王に向けていたのとは段違いの、容赦ない密度の弾幕が男を取り囲む。
「好き勝手喋るな!! 誰が、誰が斬らせるもんか。――どいつもこいつも、よってたかって頼政のことを忘れようとしやがって!!」
「そうか」
 我を忘れたぬえの暴走。それらを前に、男がしたことは単純だった。
 これまでと同じように、腰の大太刀に手をかけ――静かに、鍔を鳴らした。それだけだ。
 そう。それは抜刀どころか、納刀の瞬間すら見定めることのできぬ神速の太刀筋。
 わずか一閃でぬえの弾幕はかき消される。力で強引に弾幕を相殺したのではない。無数の鏃すべてを一つ一つ斬り防いだのですらない。
 男はぬえの正体不明の力を見極め、見定め、それ自体を斬ったのだ。
「妖怪の鍛えた楼観剣。斬れぬものなどなにも無い」
「っ、ざけるな!!」
 ぬえは激昂と共になおも立て続けに弾幕を繰り出すが、殺意を込めた無数の鏃は、妖忌が四尺七寸の大太刀が鍔を鳴らすたび、あっさりと霧散する。
 三度、四度。いくら繰り返しても、その結果は変わらない。
「逸るな、〈鵺〉」
 ならばと、折れた短槍を構え立ちあがりかけたぬえを。
 言葉だけで制し、妖忌は吐息と共に隻眼を閉じた。
「勘違いをするな。死神とは命を殺めるものではない。死ぬ定めの者の前に現れるだけの、いわば道標。ただの事後処理の役人だ。それに恐れを感じるのならば、それはお主らが死を恐れているからに過ぎん」
 ――畏れる勿れ、死神の名を。
 そう嘯き、妖忌はゆるりと腕組みをほどく。
「冥府とは死後の世界の運行ををつかさどるものだ。今の冥府は十王の元、仏道に従い輪廻する魂を管理する任を負う。俺は、魂魄家にあってその冥官代行を務めている、半死人だ」
 その身に纏わりつくほどに濃い、死の気配。
 言葉の通り、彼は半分死んでいた。妖忌の傍らに寄り添うように浮かぶのは、死して体から抜け出した魂と魄なのである。
 掻い摘んでいえば、冥官とは死後の魂の事務手続きを行う官吏である。それに大きな権限はなく、ただ、冥籍の記したとおりに、死した存在を連れていく、ただそれだけの使い走りも同然の存在だと言う。
 妖忌の語るところによれば、いまは度重なる戦乱で冥府も人手不足であり、彼は故あってその役目を引き受けているということであった。
「魂は死の後、輪廻をもって巡らねばならん。それが今の彼岸の規範。守るべき生死のさだめ。それに乱れがあるならば、正常に糺すのが俺の役目というわけだ。そして――獅子王よ。お主の因果は頼政のそれを妨げている」
「……俺が、じっちゃんを……?」
 隻眼の死神の指摘に、意味を飲み込みかねるように、獅子王は呆然と妖忌の言葉を繰り返した。
「源三位頼政が現世に残した未練。摂津源氏の棟梁として起ち、無念にも想い半ばで死した慙愧。宇治川の合戦のその執念が、お主を付喪とした。願っても斬れぬその身に与えられたのは、源三位の辟邪の武としての誇り。果たせなかった想い。そして、その娘、木ノ下と共に過ごすことへの執着。それらはすべて、冥界へと向かう頼政の魂を現世に繋ぎ止める楔となりうるものだ」
「でたらめ言うな! 信じられるかよ!」
「獅子王よ。お主はあの娘を斬れなかっただろう。それが何故かわかるか」
 ぬえの言葉を無視し、妖忌は獅子王の顔を覗き込む。
「そんなの決まってる! わたしは、頼政の弓にしか――」
「違う。いかに〈鵺〉の力が強力とて、大和千住院の名工による辟邪の太刀。滅ぼせぬまでも断ち切ることは可能だったはずだ。にもかかわらず、お主がこの娘を斬れぬのは、お主が太刀ではないからだ」
「……俺が?」
 両手を見降ろして。茫然と繰り返す獅子王に。妖忌は続ける。
「お主が付喪としてその写し身を得たのはいつか。宇治川の合戦。源三位頼政の終焉の地。摂津源氏一門が血を流し死したあの戦場だ。お主の本身たる、獅子王太刀が折れた、その場所だ」
 つまり。
 ここにいる獅子王とは。大太刀獅子王の写し身ではなく。
 折れ、壊れた太刀の付喪神である。
 折れた太刀は、戦の道具として本来の機能を果たすことはできない。同様に、折れた太刀の付喪神も、本来の意義と存在を失った、半端者なのだ。
「ゆえに、お主はその娘への復讐と、源三位頼政への執着を本義として生まれた。付喪とはそういうものだ。執着と無念を核に、所有者が残した想いを受け継ぐ。審神者の正しき力を経ずにお主がその姿をとり続けること、それは、お主がただの刃であることを止めるということに他ならない。人の手に寄らず、己自身で相手を見定め、斬ると斬らぬを決める。それはすでに太刀ではない。自らの意志を持って刃を振るう、あやかしだ」
 ぬえは思い出す。
 獅子王は、ぬえを頼政の仇敵と呼び、復讐を叫んでいたのではなかったか。頼政に変わって、鵺を打つと叫んでいたのではなかったか。
 彼は今、化け物と道具の境界にあるのだと、妖忌は言う。
「思い出せ。源三位はそのような怨讐を残して逝ったのか。志半ばで力尽き、未練のまま、世を呪うて死んだのか。その真実はお主らがよく知っているはずだ。
 ……獅子王よ。改めて問おう。お主は頼政の刃であることを止め、畏れを纏い、源三位の怨讐を受け継ぐあやかしとして、このみやこに名を馳せるを望むか」
「…………」
 ぬえはそれを知っている。妖忌の語る化け物の姿を知っている。
 それはかつて、ぬえが〈鵺〉として辿ったのと同じ道だ。
 いつしか日は暮れていた。宵と夕が入り混じり、長い影が廃寺の地に落ちる。
 妖忌は懐から小さな符を取りだした。割符にともる小さな鬼火を見、死神代行を名乗る男は告げる。
「あまり時間はないぞ。獅子王よ。再度問う。……お主はそれを望むのか。主への想いゆえに、刀であることを止めるのか。そこの娘と共に、あやかしとして生きるのか」
「俺、は……」
 獅子王は小さく両の拳を握り締める。少年の金色の双眸に、逡巡がよぎるのをぬえは見逃さなかった。
「やめろ!! 耳を貸すな獅子王! 信用できるか! 殺されるだけだぞ!!」
 ぬえが叫ぶ。が、妖忌はあっさりと首を振った。
「言ったろう。俺はあくまで代行だ。本職の死神ではない。馬鹿正直に冥官の任務とやらに拘るつもりもない。――ここで恨まれてお前達に尾け狙われるのも、冥府で源三位を敵に回すのも御免だ」
「信じられるかよ!! 第一、っ……!!」
 今の獅子王が、折れた太刀の付喪であるなら。
 それを直した時、そこにいるのは、今の獅子王とは別の、まったく違う、何かなのではないか。その推論を叫ぼうとして、ぬえは言葉を飲み込む。叩きつけるには、あまりにも悲しい結末だったから。頼政の最期を想い、意志を継ごうとした彼にとって、あまりにも報われぬ終着であったから。
 詰め寄るぬえに、妖忌は静かに首を振る。
「然り。因果は遡れない。折れたままでいては、刀となることはできん。源三位の無念を引きずるままだ。……だが、斬ることはできる」
「斬る……?」
「お主を絡め取る因果。歪めんとする怨讐。それを断つ。俺は、そのためにここに来た」
 そうして、黒衣の死神の問いは、はじまりへと戻る。
 獅子王の前に膝をつき、目線を合わせて訊ねる妖忌に――
 わずかな躊躇いの後、獅子王は頷いた。
「わかった」
「獅子王!?」
「やってくれ。……俺は、じっちゃんの刀でいたい。じっちゃんがもう居ないなら、なおさらだ」
「――そうか」
 あまりにも早い決断。妖忌は緩やかに膝立ちとなった。魂魄の大太刀、楼観剣四尺七寸の柄に手が掛けられる。
「お、おいっ、やめろ!! やめろよ!! 獅子――」
 神速の斬撃。不可視の一太刀。離別を前に、ぬえが咄嗟に飛び出そうとする。
 が、
「木ノ下。――ありがとうな」
 そう言って、獅子王は笑った。心からの笑顔と共に。
 少年の笑顔に、ほんのわずか――ぬえが、その手を伸ばすのを躊躇ったその時。
 鎮ッ。涼やかな鍔鳴りが響く。
 見惚れるほどに美しき、白刃、総身四尺七寸。ひと振り十殺を誇る、十夜斬の楼観剣。
 抜く手すら見せぬ妖忌の一閃と共に、がらんと地を転がるものがあった。
 鞘と共に、折れ砕けた獅子王の刀身が、およそ一尺ぶん。
 因果を千切る断片となって、からからと地を跳ねる。
「獅子王!!」
 脚を引きずり、走り出したぬえの先、獅子王の写し身がふらりと傾いた。抱きとめようとしたぬえの手をすり抜け、金髪の少年の姿は薄らぎ、そして緩やかに消えてゆく。
 摂津源氏源頼政の、宇治川の合戦とその敗北。
 付喪となった因果を失って、彼もまたその存在を保てなくなったのだ。
 後に残るのは、黒漆糸巻拵えの、太刀の本身のみ。
「…………」
「これで、源三位の魂も安らごう」
 楼観剣を腰へと戻して、妖忌は深く息を吐いた。
「てめえ!! なにをしやがったッ!!」
「折れた刀身ごと、その太刀の『長さ』を斬った」
「はぁ!? 長さ……?」
「黒漆糸巻拵大太刀、獅子王、三尺五寸五分。かの合戦で源三位が手にし、志半ばで折れ砕けた太刀。獅子王を歪めていたのはその過去だ。ゆえに、俺はその長さを斬った。宇治川での怨讐、因果とともに」
 ぽかんと口をあけるぬえの前で、妖忌は地に転がった獅子王の刀身を拾い上げる。
 それを見て、ぬえは息を呑んだ。なんという神業か。妖忌は、獅子王の刀身から、折れたという事実ごと一尺余りの「長さ」だけを斬りだしたのだ。元の太刀には一切傷をつけないままに。
 雨を斬り、空を斬り、時を斬り。魂魄の刀は、全てを斬る。
「妖怪の鍛えたこの刃。楼観剣に斬れぬものは無い」
 あとに残されたのは、二尺五寸五分の太刀である。
 同じ獅子王、しかし、違う獅子王。あの宇治川の合戦で、頼政の元にあり、なお折れなかった獅子王だ。
 それを鞘へと納め、妖忌は静かに告げた。
「……美濃の土岐光定は、摂津源氏と同じ源頼光を祖に持つ源氏の末裔だ。彼であれば、源三位の志を理解し、この太刀を正しく伝えるだろう。彼を預け、伝えるには十分なはずだ」
「待ちなよ」
 全ては済んだとばかり、獅子王を手に立ち去ろうとした妖忌の背中に、ぬえは声をかける。
 少女はその手に斬り落とされた獅子王の「長さ」を拾い上げた。
 鞘の中に残る小さな太刀のかけら。獅子王が失ったかつての『因果』。それを握り締め、己の二の腕に深く突き刺す。ぶしゅう、と噴き出す血は――人と同じに赤い。
「――斬られた長さだって、忘れられていいわけがない。違うか、死神」
 ぬえはひときわ強く念を凝らした。残る全身全霊の力を降り出し、渾身の力を込めて正体不明の種をつくって、獅子王の斬られた「長さ」に籠める。
 ざわり。ぬえの手の中で大太刀の断片がもぞりと動き出した。
 しゅうしゅうと風に溶けるように黒い闇の塊となった「長さ」は、不定形な四足の獣の姿となって、妖忌の手にする獅子王に絡みつく。
「二尺五寸五分じゃない。三尺五寸五分でもない。その両方であって、そのどちらでもない。それが、こいつだ。頼政の獅子王だ」
 長さも、謂れも、拵えも、曖昧な太刀。
 それは――正体不明の〈鵺〉を討った、源三位頼政の太刀に、きっと相応しいはずだ。
「どういう心変わりだ。お主からこやつに因果を結ぶなど」
「気まぐれだよ」
 獅子王が、出会ったときからずっと望んでいたこと。
 もう、この世にはいない持ち主との縁。それを繋ぐのが、正体不明の化け物だというのは随分皮肉なものだと、ぬえは口元を歪めて牙を覗かせる。
 己の腕を流れる血を見つめながら、ぶっきらぼうに、ぬえは答える。
「もう一つくらい、わたしを繋ぎ止めるものがあったっていい。そう思っただけだ」
 鵺退治の源三位頼政の剣。黒漆糸巻拵太刀、獅子王。
 ぬえは地を蹴り、身を震わせてあらたな三対のいびつな翼を降り出した。左右非対称の羽根をはためかせて、死神を地に残し夜空へと舞い上がる。
 わずかに欠けた満月の下、にわかに湧き起こる黒雲が星空を覆い、少女の身体を取り巻いてゆく。
 広がる闇の中。ぬえは鳴く。喉を震わせ、空に啼く。
(獅子王。お前が、もし、また人の姿を持ったら)

 ――いつか、また、このみやこで。

 ひゅぉおおぅ、ひゅぉおおおう。

 遠く、再開を誓いながら。少女の悲しき鳴き声が、夜の都にこだまする。
 うらなくぬえどりの啼き声は、別れを惜しむかのように、いつまでもいつまでも響いていた。


 (了)