八 木ノ下

 

 二度の鵺退治をもって、頼政の名はみやこじゅうに知れ渡った。
 大江山の首魁、酒呑童子を討伐した源頼光以来の辟邪の武、摂津源氏――その名を継ぐに相応しき、古今無双の源氏の長老。摂津源氏と渡辺党の名は平家全盛の世にあって、なおその勇名をあきらかなものとしたのである。
 二条院よりお住まいを移した二条帝は、恐ろしき鵺を射止めた頼政の活躍をたいそうお歓びになり、新たな御座に頼政をお招きになって、手づから御衣を下賜なされた。
 この時、取り次ぎを行った右大臣、歌の名手で知られる徳大寺公能は頼政に帝のお言葉を伝え、その肩に帝よりの御衣を掛けながら、

 五月闇 名をあらはせる 今宵かな

 と詠んだ。雲の上の雁を射たという楚国の射手、養由基の故事を引き、頼政は闇夜雨の中でも鵺を見事射止め、名を馳せたことを称賛したのである。
 この公能の歌に、頼政は澱むことなく、

 たそがれ時も 過ぎぬと思ふに

 と返し、御衣を頂いて退出した。二度の絶賛をうけながらも、それはただ己のおかれた環境が良かっただけなのだと謙虚な姿勢を崩すことない頼政に、その場の誰もが称賛を送った。管弦・歌・朗詠等に優れる多芸多才な大炊御門の右大臣も、頼政の見事な歌才を褒める言葉を残している。
 この時より程なくして、頼政は近衛河原の屋敷に、娘を一人住まわせることとなった。
 奇妙な話であった。噂を聞いて近衛河原まで様子を見に行った野次馬達によれば、確かに少女の声が聞こえる。しかしそれらはとても姫君とは思えぬ品の無いものであり、声に合わせてそれを追いかけ回す足音が始終聞こえているのだと言う。
 頼政には既に数名の娘がおり、その一人は二条帝の女房として出仕していることが知られていた。しかしこの娘は、明らかに彼女らとは別人であるというのだ。
 この奇妙な娘を、頼政は己の傍から離さず、自ら世話を焼いてまで寵愛しているという。頼政だけではない。どういうわけか摂津源氏の長の屋敷にあって、この娘はたいそう大事にされているらしかった。
 さて、これは如何なることか。その姿振る舞いを耳にする限りではやんごとなき姫とはとても思えぬが、さりとて下女とも思えない扱いの良さは、いつしか市井のささやかな噂となっていた。
 なにしろ鵺退治の英雄、摂津源氏の棟梁が、その老いらくとなって招いた娘である。口がさないみやこの人々の興味を呼ばぬはずがない。一体どこの出自であろうと、下世話な勘ぐりをするものたちは後を断たなかった。
 帝がいたく頼政のことを信頼なされるようになったという話も合わさり、件の娘は菖蒲御前などというあだ名まで付き、帝が寵愛されていたやんごとなき姫君の血筋のものではないかという話までが囁かれるようになったのである。
 なんでも、若き日の頼政は宮中にあった美しき姫君を見染め、道ならぬ恋に落ちたが、その頃の彼はまだ勇名も無き幼き少年。とても叶わぬ恋であった。しかし頼政はその想いを捨て切れず修練に打ち込み、ついに帝の信頼を勝ち得てその想いを遂げたのだというのである。
 頼政が鵺退治に名乗り出たのも、その恋を叶えるためであった――などという悲恋の成就を、さも見てきたかのように語る者まで出る始末であった。
 近衛河原の屋敷の者達となれば、もう少しばかり事実を知る。
 この娘は近衛河原にあって木ノ下と呼ばれていた。市井の噂話とは似ても似つかず、頼政の恋の相手などとはとても思えぬ、気品に欠けた娘であった。
 年の頃は十を少し出たばかり。衣にも頓着せず、簡素な寺に入った童女が着るような墨染の衣を引きずって、裾からは白い足を膝上まで出して気にもせぬ。
 ぼさぼさの髪は肩上で無造作に切り落とし、くしけずる事もなく、牙のように尖った歯を隠すことも嫌がるほどだ。香も焚かず、眉を書くどころか化粧もしない。まるで洛外の路傍で寝起きする流民のような成りであった。
 そしてその素行は外見に輪をかけて酷い。なにしろ肌蹴た衣を気にせず屋根に登る、犬を追って庭を駆けまわる、勝手に馬を連れだして日が暮れるまで駆けてくる――おおよそ、娘の振る舞いとは思えぬ悪戯ぶりである。貴族の子女どころか、坂東の悪童でもありえない野蛮な振る舞いに、眉を潜める家人も少なくなかった。
 郎党や家人への悪戯も絶えることなく繰り返され、肥壺に落とされる、書物を荒らされる、鶏が見えないと探しまわれば、庭で丸焼けになった肉を頬張る彼女の姿が見られると、騒動ばかりをもたらす娘に、家を預かる女房達は頭痛の治まる日がなかったという。
 主である頼政が連れてきた娘ゆえ、表立って言う事ははばかられたが、多くの家人は扱いかね、ひどく手を焼いていた。また、どうしてそこまでして頼政がこの娘を大事に扱おうとするのか、そのことは皆の疑問でもあった。
 なにしろ摂津源氏の棟梁にして、二度の鵺退治を果たした武門の誉れである。かつては多くの姫君と浮名を流した彼が、老いらくにして出自も知れぬ童女を囲ったとなれば、口がさない者達でなくともあれこれと想像をたくましくしようというものだろう。
 中には菖蒲御前の噂を真に受け、やんごとなきお方の係累が山中に棄てられていたのを密かに保護し、育てているのだと考えている者まであった。割と良い線をいっているなと頼政は苦笑する。
 今日もまた屋敷のあちこちで起きる騒ぎを聞きながら、頼政は声を上げて娘の名を呼ぶ。
「木ノ下。木ノ下、どこだ」
「なんだよ頼政」
 木ノ下は庭の木の上から、脚だけを枝に引っかけてぶらんとぶら下がっていた。だらしない墨染め衣の前襟が大きくはだけ、白い肌が覗いているのを気にもしない。
「聞いたぞ。また鈴を困らせたのか」
 世話の為に付けた娘が頭から落ちてきた蛇に驚いて眼を回したという話を聞いて、家人がとうとう頼政に泣き付いたのである。彼等の必死な形相に、流石に頼政も見過ごしてはおけなくなった。
「へーんだ。あいつが五月蠅いからいけないんだよ。二言目には礼儀だ作法だってさ、息が詰まるっての」
 どこで摘んできたか花の蜜をつまみ、鋭い歯の間からべえと舌を出して見せる娘――木ノ下。
「このぬえ様にお小言だなんて、百年早いんだよ。……お前だってそうだぞ、頼政」
「呆れたものだな、そんな大層なことが言えた様か」
「ふん、人間の格好なんて知ったことじゃないね」
 生意気に口を尖らせる娘、木ノ下。
 そのまことの名を、ぬえという。
 ……そう。彼女こそが二度に渡りみやこを騒がせた大妖怪、鵺であった。
 このことを知っているのは郎党達の中でもごくわずか、授や省を含めた忠臣だけである。
 あの日、頼政の放った矢はついに彼女を傷付けることはできず、鵺を仕留めることは叶わなかったのである。しかし鵺もまた力を使い果たして倒れ、その場に崩れ落ちた。
 頼政はひそかに鵺の遺骸と偽って彼女を匿い、近衛河原の屋敷へと連れ帰ったのだ。
 ちょうどその時、近衛河原には仲綱が伊豆からみやこまで夜を徹しての強行軍で駆け戻って来たところであった。できるだけ内密に事を運ぼうとした頼政だが、嫡男にまで秘密にしておくわけにはいかず、頼政は歯切れ悪く事の顛末を仲綱に話した。
 まず仲綱は絶句し、次に激しく怒り、そして最後に父の正気を疑った。頼政があやかしの術に惑わされ、気狂いとなったのではないかと考えたのだ。
 帝より討伐を命じられた妖怪を匿い、育てることにしたと聞かされれば。息子の対応は実に真っ当なものであったと、頼政ですらも思う。
 正気を失った父の快癒を願い、仲綱はただちに信貴山は朝護孫子寺より徳の高いと評判の僧を呼び寄せ、加持祈祷を始めさせようとまでしたのである。
 そんな息子をどうにか説き伏せ、納得させるまでには三日ほどを要したのであった。
「――父上が本心から仰っているのは分かりました。あれが幻であったというのも、まあ納得するといたしましょう。ですがやはり看過できません。このばけものは、帝を害し、父上の命をも奪おうとしたのですよ。早太もそうだ」
「それはなあ、俺と早太はこの娘の……まあ、言い方は妙なことになるが、この娘自身の仇だ。殺されてもおかしくないことをしたのだ。恨まれるのは当然だろう」
「父上、親が妖怪に取り殺されようとしているのを、子に黙って見過ごせというのですか!」
「むう……」
「百歩譲ってその事を棚に上げるとしてもです。この娘が人々を恐れさせ、帝を脅かしたことは確かでしょう。父上はそれすらも庇うというのですか!」
「……それは、そうなのだがな……」
 父が本気であると知ってなお仲綱は強硬に反対したが、いつになく頼政の決意は固い。どうあっても譲らぬと知って、ついに仲綱も不承不承それを認めて折れ、説得を諦めたのであった。
「仲綱はなまじ優秀だからな、つい面倒ばかり押し付けてしまう。気苦労をかけさせてばかりで申し訳ないものだ」
 仲綱が伊豆に戻った後、頼政は家人にふとそんな事を漏らした。
 ぬえを人間の娘として迎えるのに際しては、団三郎があれこれと奔走してくれた。顔の広い彼女は、ぬえを戦災で身寄りを失った娘という身分に仕立て、近衛河原に滞在させる手はずを整えたのである。
 商人が金にもならぬ事にどうしてここまで心を砕くのかと、不思議に思った頼政が訪ねれば、団三郎はかかかと痛快そうに笑い、
「頼政どの、儂にそれを聞かれますかのう。女だてらに商いをしておれば、女の身というものがいかに脆く危うげなものか、嫌でも思い知るものでしてな。守ってやらねばという親心の一つや二つ湧いてきますものじゃ。これは、恋歌の妙で知られる頼政殿もまだまだ女心が分かっておられぬと見える」
 そう言われてしまえば、頼政は返す言葉もない。
「なに、こたびの退治にお手伝いできなかった埋め合わせと考えて頂いても結構。ただほど高いものもないという言葉もありますからのう。たっぷりと恩を売らせていただくとしましょうかの。なに、案じていただかなくとも、これで頼政殿と儂は一蓮托生ですからのう」
「怖いことを申すな」
「かかか。では、早速手配するとしましょうかの」
 したたかな女商人と、家人たちの献身によって、ほどなくぬえは「木ノ下」として近衛屋敷で暮らすことになった。
 もっとも、それからがまた大変だったのである。
 はじめ、頼政はぬえに九重と言う名を送り、洛外近くに館を建てて、世話をする女房や家人をも揃えさせようとしたのだが――そんなおしとやかな名前は趣味じゃないとぬえがそれを断ったのである。
「ばーか。名前までつけて、わたしを囲ったつもりか? 冗談言うにしたって自分の歳を考えろよ、頼政」
「――不自由はさせぬがな」
 頼政とて、本気で彼女を自分のものにしようと考えていたわけではない。身元の知れぬ若い娘を傍に置くために、一番対外的な説明をしやすい方法というだけだ。家格にやや不都合のある姫を傍に置くため、屋敷を建てることは古くから良く行われていた。
 とは言えここまで素っ気なくされるとは思わず、頼政は内心、少しばかり戸惑ったのも事実であった。自分で言うのもなんだが、頼政は顔にも歌にも所作にもそれなりの自信はあり、これまで求愛を袖にされたことはなかったのである。
「けっ、絶対に御免だっての。人間の娘みたいに綺麗に着飾って紅でも指して、頼政さまぁんなんて呼べってか。鳥肌立っちゃうね。それとも頼政、わたしみたいなのが好みなの? 良い趣味してるねえ」
 牙をむき出しにしてけらけらと笑う。粗野なしぐさだが、不思議と不快にならなかった。
 頼政は別にそれでも構わなかったが、ぬえが乗り気ではなかったし、なにより齢六十を超えて幼い娘を召し上げるのは如何なものかと、仲綱が実に嫌そうな顔をしたので流石にこれは諦めることになった。
 かくして、ぬえは近衛河原の屋敷に、木ノ下としてかくまわれることとなったのである。
 樹上の上のぬえを見上げ、頼政は腕組みして吐息する。
「お前は目立ちすぎるからなあ、少しは人の世に溶け込ませてやろうという心遣いだろう」
「余計な御世話だよ。第一」
 ぬえがくるんと指を丸めると、そこから羽根の生えた小さな蛇のようなものが姿を現した。彼女がそれをぱくんと口に含むと、たちまちぬえの姿は美しい姫君へと変じる。
 これがぬえの力。〝種〟を植え付けた者の姿を覆い隠し、別のものに見せるという正体不明の力である。
 樹の上の姫君というちぐはぐな姿をしながら、ぬえは元の姿と同じ声でけらけらと笑う。
「わたしに人間の作法を教えようなんてのが馬鹿馬鹿しいのさ」
「だが、その力も自在という訳ではない――だろう?」
 共に暮らして一年余り。ぬえの力の特性というものを、頼政はようやく把握していた。はじめ頼政は彼女が見るものを騙し、姿を自在に変えることができるのだろうと考えた。しかし、どうにもそれでは辻褄が合わないことが頻出したのだ。ぬえの力――種を植えつけられたものが同時に複数の人々の目に触れた時、特に彼等が種の事を知らねば知らぬほど、それぞれの目には別の姿として映るらしい。
 そしてその姿は、その時彼等が最も気にしているものの形を取ることが常であった。金の無心に頭を悩ませていれば銭に、腹を空かせていれば握り飯に。恋人に送る歌について思案していれば、その返歌を記した短冊に。
「常に、お前が見せたい姿を見せられるとも限らんのだ。その姿のままでも怪しまれぬようにしておくのは悪いことではなかろう」
「やだね。人間の真似なんか誰がしてやるもんか。いいか? わたしは大妖怪ぬえ様だぞ。
 ……頼政、お前に従ってやってるのもただの気まぐれなんだからな。そこんところ、ちゃんと覚えておけよ」
「……わかったわかった」
 みやこ広しといえども、摂津源氏の長にこのような物言いをする娘がどれほどいようことか。
 宮中でぬえに遭遇した者達が皆、同じような姿を見たのは、あの場に居合わせた最大の関心事が、かつての頼政のばけもの退治によって流布された〝鵺〟という恐怖であったからなのだ。
 みやこの夜を飛び回り、人々を脅かすばけもの。ぬえの『正体不明』は、誰もが恐れるその姿となって映ったのである。ちょうど、頭が猿で胴が狢、手足が虎などという、あやふや極まりない姿で鵺の姿が広まっていたからこそ、多少の違和感は無視されてしまったのだろう。
 ぬえがその力を最大限に振るうには、事前に入念な準備が必要であった。多くの者たちが共通して恐れを抱く、確りとした姿がある時こそ、皆の恐怖はひとつに集まり同じ像を結ぶ。そうしてみやこの夜を騒がしたばけものはその姿を現したのだった。
 種を力に戻し、元の姿に戻るぬえに、頼政は腕組みをして苦笑する。
「しかし、ぬえよ。お主もきちんとしておればましな造作をしておるのだから、せめて化粧くらい少しは繕ったらどうかと思うぞ。その方が色々と楽だろう」
「またその話か。やなこった。堅苦しい」
 ぷいと顔を背けたぬえだったが、すぐにふと何かを思い付いたようで、ぴょんと枝を飛び降り、ふわりと宙を飛んで頼政の胸に飛び乗る。
「それとも頼政、やっぱりわたしに懸想してるのか?」
 にんまりと口を緩め、ぬえは恥じらいもなく衣の襟をはだけてみせた。
 まったく色気の欠片もない、肋の浮いた板のような胸元に頼政は苦笑する。
「ませたことを言うな、餓鬼の分際で」
「ふん、よく言うね」
 ぬえはさらに大胆に衣を捲る。肉付きの薄い胸の下、みぞおちの辺りから、右の脇腹へ向けて、深々と矢の貫き通した傷痕があった。十年前にまだ人間だった頃の彼女を射抜いた、頼政の矢の痕である。
「……わたしを傷ものにしといて、その言い草はないだろ、頼政?」
「はしたない、そんなものを見せるな」
「ん? なんだ頼政、興奮したのか? いい歳して助平爺め」
 胸元を見せつけるように寄せて見せながら、口元から尖った歯を見せて妖しく微笑むぬえ。少年のものとそう変わらぬ薄い乳房であるが、あどけない顔立ちが見せる妖艶な誘惑をもってすると、とうに年枯れたはずの頼政の胸をざわつかせるのである。
 まだ十一、二になったばかりと思われる娘のすがたは、ときどき驚くほど妖艶な一面をのぞかせた。とくにその妖しげに紅く濡れた唇や、伸ばし放題でくしゃくしゃと定まらぬ髪、肋の浮いた白い肌。いずれも美しさとは程遠い粗野なものであるはずなのだが、頼政には不思議と眼を離せぬ魅力があるのだった。
「ん、ほら、どうした、頼政?」
「……ああ、わかった、わかったからしまえ。……もう五月蠅いことは言わん」
「初めっからそう言えばいいのさ。意地張りやがって」
 降参だと両手を上げる頼政に、ぬえは上機嫌で木の枝から飛び降り、その背中に飛びつく。
 そのまま彼を縁側に腰かけさせ、ぬえは頼政の膝に頭を乗せ、ごろんと横になった。
「まったく、手のかかるじゃじゃ馬だ」
「引き取った奴が悪いのさ」
 苦笑する頼政に、ぬえはにぃと歯を見せ、屈託のない笑い声を上げる。
 つられて頼政も笑った。宮中で求められる阿諛追従とはちがう、腹の底からの、心底愉快な笑いだった。
「そうだな、引き取った責任は取らねばならぬな。もう二度と悪さをさせぬように、見張っておくか」
「またそれかよ。気色悪いな、いい歳してなに言ってんだっての」
 摂津源氏の長を捕まえてこの扱い。見るものが見れば激怒してもおかしくはない。それでも、頼政はこうしてぬえと過ごす時間をなによりも心地よく感じていた。
 あの日の夜の秘密を共有できる、かけがえのない大切な友を――十年を経てこうして得ることができたのだから。

 


◆ ◆ ◆

 


 おおよそ、騒動を起こしながらもぬえ――木ノ下を含めた近衛河原の屋敷での毎日は、日々忙しく過ぎていった。いろいろと悪戯は絶えぬものの、ぬえの振る舞いは基本的に可愛らしいもので、本気で屋敷の外にまで迷惑をかけるようなことは起こさなかったのだ。
 精々、やんちゃな男子が一人増えた程度のことであると、家人が安堵と共に理解し、仲綱が痛む額を押さえ、郎党が苦笑と共に受け入れて。
 みやこの噂も七十五日と遠のくころには、いつしか木ノ下は近衛河原に欠かせざる一人となっていった。
 まともな育ち方をしていないため、子供のような見てくれに惑わされるが、ぬえは実のところ頭の回りも速く、弁舌にも長ける。特に嘘や屁理屈では敵うものは居らず、理屈屋の仲綱でも言い負かされることもたびたびであった。
 また、どこで学んだかは知らないが、ぬえは古今の和歌や古典の物語などにも一通り通じていた。いかにも人外らしいと言うべきか、生来のものか、解釈はどれも捻くれたものばかりであったのだが。
 ぬえの元となった少女の父は、おそらくかの正四位参議の源雅頼。母の出自は定かではないが、みやこの宮中に出入りできる程度には恵まれた血筋なのである。受け継いだ才はあるのだろう。
 手のかかる子供のようなぬえであったが、けして見た目通りの子供ではないことに、頼政は時々どきりとさせられることがあった。
 例えば、ある冬の日のこと。頼政が一人、屋敷の縁側で物思いにふけっていると、廂の上からぬえがひょいと顔を出してその様子を覗きこんでくる。
「どうしたのさ頼政。難しい顔して」
「……お前はまた屋根の上から……いや、まあ、なんでもないさ」
 またもだらしない格好の木ノ下――ぬえに、頼政は眉をしかめたが、すぐに表情を引き締め、咳払いを挟む。
「ははあん。その様子じゃ女にでも振られたな」
「む」
「誤魔化しても無駄だよ、顔に書いてある」
 この頃、頼政は二条帝の女房である、待宵の小侍従と呼ばれる美しい女と知り合い、互いに恋歌を送り合う仲となっていた。しかし最初こそ聡明で情感深い彼女の歌に魅せられ熱心に歌をかわしたものの、日々の職務やお互いの年齢差などもあってつい音信も遠くなり、ついつい歌の頻度も離れていた。
 そうしているうちに小侍従が若い男との新たな恋に移ったという話を聞いたのである。
「それでうじうじしてるんだな? いい気味だ。いい歳こいて色気を出すからさ」
「そうは言うがな……」
 歌のやり取りは貴族の基本教養とも言え、通い婚が通例であるみやこにおいて、このようなことは頼政に限らず宮中では多く行われていた。待宵の小侍従も二条帝のもとに仕える女房の中でとく歌の情趣の深さと即詠の才でこの人ありと知られた人物であった。
 なによりも、小侍従のあらたな恋の相手は平忠度。まだ二十歳そこそこの清盛の異母弟である。平氏の中においても文武に優れ、若くして藤原俊成に師事を約束されているという。
 歌を通じて繋いだ絆が、歌によって離れていくことは、頼政の歌人としての矜持にも関わることである。そう簡単に割り切れるものではない。
 なおも眉間に皺を刻む頼政に、ぬえは呆れ顔をみせる。
 そしてしばしの後、頼政の背中に飛び乗ってこう詠んだ。

 忍びこし ゆふくれなゐの ままならば
 くやしや何の あくにあひけん

「む」
「わかってないなあ頼政。いくらいい歌を詠むからって、ロクに会いに来てもくれない男にいつまでも心を残す女がいるかっての。待宵の小侍従なんて頭のいい奴ならなおさらだよ」
 頼政は思わず唸っていた。夕紅の情景につれない男への慕情を織り込み、恋に飽きる移り気な心、会えないことへの未練をちくりと混ぜた見事な歌だ。技巧、即詠、籠められた情感。いずれの点でも申し分のない出来栄えである。ただ耳にして覚えたというだけでここまで見事な歌を詠むことはできないだろう。
 頼政は既にこの時歌壇にても広く認められ、その歌才を高く評価されていたが――その頼政から見ても、ぬえの歌は新しい独特の感性を持ち、新鮮に映ったのである。
 頼政はしばし考え、こう返した。

 くれなゐの あくをばまたで 紫の
 わかねにうつる 心とぞきく

「なんだそりゃ。……ひっどい歌。男の嫉妬は嫌われるよ、頼政」
「うるさい」
 不貞腐れる頼政の隣で、ぬえはぷかぷかと浮かびながらけらけら笑う。
 それもそのはず、頼政の返歌は紅花の色を落とす灰汁に、飽くを掛けて、相手の心移りを咎めるものだ。女々しいとは思いつつも、やはりそう簡単に心残りは断ち切れない。老いらくであろうとも、これは頼政の恋であった。
 結局、この後頼政と小侍従との関係は修復されることなく、距離は離れてしまうが――後に彼女が出家し、坂東に向かう時に、頼政はそれを案じる歌を送っている。
 そこには疎遠になったかつての恋人に対し、優柔不断な男の背中を叩いて急かす少女の姿があったのである。

 


◆ ◆ ◆

 


 さて、そんなふうに頼政とぬえが近衛河原の屋敷で共に過ごす時間は多くなっていったが、そんな時、決まって頼政の様子をじっと物陰から窺っていた小さな姿があった。
 今日もまた、ひとしきり騒いで頼政をからかったぬえが、彼の傍を離れていったと同時、そろりと姿を見せた彼の落ち付かない様子に、頼政は顎をさすって首を傾げる。
「仲家。どうした」
「……父様。お尋ねしてもよろしいですか」
 身をかがめた頼政の元にぱっと駆け寄ってきたのは、まだ十にならぬほどの幼い息子である。
 仲家は、しばらくきょろきょろとあたりを窺い、周囲に誰も居ないことを確認してから意を決したように切り出す。
「父様は、どうしてあの――木ノ下のような女子をお手元に置かれるのですか」
 真面目な顔をして聞いてくる仲家に、不意をつかれた頼政はむうと唸ってしまう。
「あのように父様を軽んじ、馴れ馴れしくするような振る舞い、仮にも摂津源氏の長に許されることではないと思います。それなのに、何故?」
「ふうむ……仲家。木ノ下は嫌いか?」
「……好きになれません。あの娘は私とひとつふたつしか変わらぬ歳であるはずなのに、私のことをやたらと子供扱いして、からかうのです。母君や女房達はあのように、……その、はしたない格好もいたしませんし、粗野な言葉遣いもしません。父様、みやこの外にはあのような女子が居るのですか?」
 頼政の息子たちの中で、一番年少の兄弟である仲家と、孫の宗綱は、ここ近衛河原でもよくぬえの悪戯の標的にされていた。何度騙されてもけろりとしている宗綱と違い、ことに気の強い仲家はからかわれるたび顔を紅くしてぬえを追いかけ回し、屋敷を騒がせるのが常であった。
 頑なな少年の反応をぬえも面白がっているようで、二人が庭先で睨み合っているのを頼政も良く見かけていた。ぬえの挑発に乗せられた仲家が、むきになって弓の勝負をするに至ったこともある。結果は――ぬえの挙動に散々心を乱された仲家の惨敗であった。
 仲家とて色々と物心の付く歳だ。幼いながらに、明け透けに接してくる娘に対してどう接していいのか分からずに、心を持て余しているのだろう。なるほど、男にとって女はまるで底の知れぬ魔物のように思える時があるか、仲家は今まさにそのことを身を持って思い知っているのかもしれなかった。
「俺には、木ノ下は、お前のことをけして嫌ってはいないように思えるがな」
「そんなことはありません! あいつは私に悪戯ばかり仕掛けてきますし、性質の悪いからかいをやめません。私だってあんな娘は嫌いです! 父様、見ていてください! あいつの弓の腕前など、すぐに追い越してみせます!」
「……そうか、そうか」
 両の拳を握り、心外ですとばかりに膨れる仲家をなだめ、頼政はなんとも微笑ましい息子の様子に頬を緩める。しばし口を尖らせていた仲家だが、やがて急に難しい顔をして、大きく首を振った。
「あの……そうではありません、父様、私が聞きたいのは」
「うん?」
「父様……その、あれは、あの娘は……父様の言うように、本当に人ではないのですか? 木ノ下は、自分がみやこを脅かした恐るべきばけものであるというのです。そんなものが、本当にいるのですか? それがまことならば、木ノ下はどうしてこの屋敷にいるのですか?」
 声を潜め、耳打ちするように問うてくる仲家。
 どうやら、それが仲家の一番聞きたいことであるらしかった。
 こうして正面切って頼政に尋ねることに、いくらか躊躇はあったのだろう。言葉には迷いがあり、それが仲家の決断を教えていた。幼い息子の真摯な視線がわずかに不安に揺れている。
 頼政はどう応えたものかと腕組みをし、しばし思案する。
「……そうだな。仲家、遮那王を知って居るか?」
「牛若どのですか?」
 知らぬはずがありませんと、仲家は拳を握って言い返した。父にまで子供扱いされたと腹を立てたのだろう。頼政は笑ってそうではないと手を振った。
 牛若丸――その名は源氏にとって特別な意味を持っていた。平治の乱にて処刑された、河内源氏の嫡流、源義朝の息子である。河内源氏のほとんどが命を落とした先の乱において、清盛が存命を許した数少ない源氏の嫡子であった。
 牛若丸は乱の当時まだ生まれたばかり。母である常磐御前の元ですやすやと眠るばかりの赤子であったという。乱の勝者となった清盛は、かつての保元の乱の失敗を繰り返すことのないよう、源氏の残党を徹底的に狩り出し、次々に処刑したが――まだ幼かった頼朝、牛若丸らの兄弟たちを皆殺しにすることまではしていなかった。
 これには清盛の母の池禅尼や、嫡男である平重盛の嘆願があったためともいう。幼子の命を奪うなど鬼畜の所業であると、母と息子に揃って諭され、さしもの清盛も追訴の手を緩めねばならなかったとの噂であった。
 とは言え、平家に背いた源氏の嫡流を在野に置くことが赦されるはずもなく、頼朝は二度と俗世に関わらぬことを約束させられて伊豆へ配流。牛若もまた、やがては出家し俗世より離れることを前提に、鞍馬山へ預けられることとなったのである。
 牛若丸の名を出され、仲家も生き別れた弟・駒王丸のことを思い出しているようだった。
「そう、牛若だ。あやつは、鞍馬の山で天狗に稽古を付けてもらっておると聞くぞ」
「天狗に、ですか……?」
 片目をつぶって言う頼政に、仲家は目を丸くする。まさかこの父が嘘を言うはずもないと信じているようだった。
 源氏の嫡流となれば政治的にも利用価値は高い。平治の乱以降、源氏の郎党達も散り散りとなって久しいと聞くが、彼等の中にはまだ源氏再興を夢見ている者たちが残っていてもおかしくない。おそらくは彼等のうち、武芸に長けた者が鞍馬の天狗と称して遮那王に武芸を仕込んでいるのだろうと、頼政は考えていた。
 それはきっと、九分九厘正しい。
 だが――残りの一厘ばかり、ほんものの天狗が遮那王に素質ありと見込み、修業を付けているようなこともあって良いのかもしれないと、頼政は思う。
「お前も聞いたことはないか、五条大橋で 通る者達から刀を狩り集めていた武蔵坊弁慶などと名乗る巨漢の荒法師を、見事下した少年がいるという噂を。ここだけの話だがな、あれは牛若だ。悪さをする荒法師を懲らしめに、鞍馬からやってきたのだと言うぞ」
「本当ですか…!?」
 仲家は拳を握って目を輝かせる。背伸びをしていてもやはり同じ年代の少年として、絵巻のような活躍に憧れる時期なのだ。
「ああ。鞍馬の山からみやこまでは一番近い道でも四里はある。一晩で行き来するには空でも飛ばねばなるまいよ。そのように、世には不思議なことはあるものだ。確かに木ノ下は少しばかり人とは違う。だがな仲家、お主が木ノ下のことを良く分からぬと思うように、木ノ下もお主のことを良く分からぬと思っているのだよ。……あいつはあいつなりに、お前たちのことを知ろうとしているのだ。まあ、少しばかり回りくどいのは悪いところだ。そこは父が叱っておかねばならんな」
「…………」
 仲家は幼い額に眉を寄せ、懸命に父の言葉を理解しようとしているようだった。
「俺は、木ノ下も、お主の兄たちと同じように、共にこの家に暮らす家族であって欲しいと願っているよ」
 父の言葉にゆっくりと頷く仲家の頭を撫で、頼政は微笑みかける。
 それで仲家の戸惑いは解けたようだった。一礼して走り去っていく息子の後ろ姿を見送り、ひとり吐息する。
「河内源氏の嫡流、か」
 そうして思い出すのは、伊豆に配流になった義朝のもう一人の息子のことだ。
 右兵衛権佐、源頼朝。幼いながら平治の乱にも参加していた彼が、伊豆で幽閉生活を送り始めてもう十年近くになる。
 はじめは決起を恐れていた平家も、今ではすっかり彼の存在を忘れつつあるようだった。それというのも彼が実に従順に、平氏の監視下においても一切の不審な点を見せずに過ごしているからだという。
 頼政と頼朝が顔を合わせたのは、彼を伊豆へと護送する時のわずかな間だけだったが――たったそれだけでも彼の才覚の片鱗を垣間見るには十分だった。義朝も若くして聡明な少年だったが、頼朝はそれに輪をかけて優れた見識をもち、国の行く末を見通す先見性を備えていたのだ。己の立場と河内源氏嫡流としての重要性、今後の自分の行く末、また自分の命を嘆願してくれた池禅尼や重盛への感謝も忘れていなかった。
 それだけの才を持ちながら、頼朝がかの地で仏門に帰依し、隠棲の身を過ごしているというのはいかにも惜しい。身内贔屓を割引いても頼政にはそう思えてならなかった。
(清盛殿も、なさることの割に度量の狭いことだ)
 若き日の清盛であれば、氏族家族などに囚われず、この才覚に溢れた若者を己のもとに招き、存分にその腕を奮わせたかも知れない。しかし――自分に弓引いた敵対者の息子を己の内に抱えるには、平家は大きくなりすぎたのだ。
 あまりにも大きくなりすぎて、清盛の夢はいまのみやこの在り様に収まり切らなくなっているのかもしれない。先頃、人としての位の最高位である太政大臣を辞し、清盛は出家してみやこより離れた福原に大輪田泊を築き、遠く大陸との貿易に着手していたのである。
 あるいは――伊勢の平太として海賊たちの船に乗り込み、瀬戸の海を駆けていた頃から、清盛入道の目指す先は、この小さな日ノ本を飛び出し、海の向こうへと飛んでいたのかもしれない。福原に貿易のための港を築くとし、私財をなげうって建設を進めている清盛入道の元には、国内外の人々が多く集まるようになっていた。
 今や国際港となった福原の栄えは綺羅充満、堂上花の如しと謳われるほどだ。大輪田泊の港は整備され、最新鋭の唐船がずらり帆を並べている。清盛入道はかの地に大陸への交流を見据え、風通しの良い新たなる為政の地を築くつもりなのだろう。
 異人と帝との面会を禁忌とする慣例を破って、宋国よりの使者と後白河院の面会をも実現した清盛に対し、九条兼実ら古参の公卿らはこれを天魔の仕業とまで激しく批判していた。
 桓武帝の時代よりこの地にみやこが築かれまもなく四百年。平安京はその名の通り盤石のままこの国の中枢であり続けた。いまはそれによる多くの弊害を抱えている。南都の僧、延暦寺の強訴、皇の樹に巻き付く藤、摂関家の策謀。深く広がった多くの女院――皇を差し置いて治天の君となった院の君。それに従う近臣たち。
 四百年の歳月の間に降り積もった、この国の為政にまつわる魔物。平治の乱も保元の乱も、それに端を発した諍いだ。その乱を勝ち抜いた清盛は、乱の因となった古いしがらみを全て斬りはらわんとしているのだろう。かつての帝たちのように新たな地に始まりを刻む事で、それまでの古い因習を切り捨て、弊害を削ぎ落とさんとするように。
「いっそ、清盛入道が源氏を根絶やしにしておればまだ話は違ったのだろうがな」
 あまり声にしては出せぬことを頼政は一人つぶやく。
 それが出来ないところもまた、入道殿の人柄だろう。平家の屋台骨である彼は、恐ろしく先見性に長け、広い視野をもち、神仏や帝までも己の道具として扱うが、その一方でどこか非情になり切れぬ男だ。源氏の長である頼政を手元に置いているのもその一端だろう。
 修羅に徹し、歯向かった勢力を子孫に及ぶまで鏖殺していれば、少なくとも遺恨を招かずに済んだだろうことは確かなのだ。
 彼が情けをかけた幼き命達は新たな争乱の若芽となって、各地に根付いている。平氏に追われ迫害された源氏は、泥を啜る屈辱の中で、平家への反発心を、憎しみを、育てているに違いない。いずれまた争いとなるのは避けようのないことなのだろう。
「……俺が生きている間は、せめてそのような事がないよう願いたいものだ」
 己の息子達、孫達の顔を想い、頼政は、ただそう願わずには居られなかった。

 

 

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