結 心より心に伝はる花なれば

 

 日々賑やかでありながら、変わらず長閑な幻想郷。境界の要たる博麗神社の樹上に寝そべり、ぬえは白い喉を猫のように反らしてくぁあ、と欠伸をこぼす。
 神社の境内には、紅白幕と派手な提灯で彩られた舞台の上、観衆の声援を浴びながら舞う少女の姿があった。はらはらと雪のように舞う紙吹雪の中、軽妙な囃子に乗って次々と面を被り変え、舞台を右に左に踊り舞う彼女は秦こころという面の付喪神であるという。
 彼女の新作能楽とやらは里の者たちには評判であるらしいが、ぬえにはまったく面白いものと思えず、彼女は何度も退屈に欠伸を噛み殺していた。
「……遅いな、マミゾウの奴」
 今朝からぬえは不機嫌だった。真面目に朝の勤行に出ろと五月蠅い一輪を撒き、命蓮寺を出ようとしたところを佐渡の二ッ岩に捕まったのだ。
 たまには一緒に能楽見物にでも行こうと誘うマミゾウに、ぬえが露骨に嫌な顔をすると、では一輪が探しておったようだから教えてやるかのうなどと脅しまでかけてくる始末。半ば無理やりここまで引きずられて来たのである。
 そのくせ、先に席を取っておいてくれと言い残し、化け狸はすぐにどこかへ行ってしまった。おかげでもう半刻近くもぬえはひとり、興味の湧かない能舞台を見続けている。
「だいたい、なんでわたしがこんなもんに付き合わなくちゃならないんだよ」
 頬杖をついてぬえは口を尖らせる。少し前に起きた幻想郷の宗教戦争では、神・仏・道の宗教家たちが人気を取り合って派手な戦いを繰り広げ、大層な盛り上がりを見せた。すまし顔の宗教家達が、俗な人気取りに奔走するのは少しばかり愉快であったので、ぬえも世話になっている白蓮を応援したが、結局そのお祭り騒ぎも十日も保たずに収束してしまったのだ。マミゾウが色々と余計な事をしたせいだと聞いている。いまさらお芝居で顛末を見せられたところで興醒めするばかりだ。
 ここは少しばかり退屈すぎる。長らく地底に居たぬえにとって、穏やかな日々の続く幻想郷はどうにも馴染みにくいものだったのだ。
(七百年……もうそんなになるのか)
 退屈の中で、ふと沈んだ追憶の中の年月を指折り数え、吐息する。
 ぬえがみやこを離れたのは、鎌倉の幕府が倒れた頃の事になる。平家亡き後、源氏の棟梁が作り上げた武士の政権というのは、結局そう長続きはしなかったのだ。
 頼政の死後、ぬえはマミゾウ――当時は団三郎などと名乗っていたが――に引き取られ、妖怪として生きるためのすべを教わった。頼政の首を、平家の手より奪い返し、東国の神社まで送り届けたのもぬえだ。正体不明の種で変装したら、神社の連中にはぬえの姿はあの猪早太に見えたらしく、どうにも噴飯ものであったが、なんとか暴れるのだけは堪えて通した。
 また、マミゾウは妖力や能力だけに頼らない強さをぬえに教えた。ぬえはそんなもの必要ないと断ったのだが、マミゾウはまるでそれを聞き入れなかったのだ。
 同じ妖怪のくせにマミゾウは滅法腕がたち、武術や体術の稽古ではぬえはぽんぽん投げられ、一方的に打ち込まれるばかりであった。負けたままは癪だったからむきになってやりかえしているうちに、いつの間にかマミゾウに乗せられてしまったのだ。
 商人を止めたマミゾウは京都に藤寺という寺を勝手に作り、そこに行く当てのない妖怪達を招いて暮らしていた。ぬえはそこに留まって、頼政の死に始まる平家の滅亡と源氏の再興を見届けることになった。
 源平の争乱の顛末はあっけないものだった。あの乱の後、以仁王の令旨を得た全国の源氏が一斉に蜂起したのだ。平家は慌ててこれを鎮圧しようとするも失敗。さらに具合の悪いことに病で清盛が死んでしまう。これを見逃がさず、木曽にいた血気盛んな義仲という男と、信じられないくらい戦の上手い義経という若者がみやこに攻め込み、平家の残党を追い出して、ついには西の果ての壇ノ浦まで追いつめて滅ぼしてしまった。彼らを指揮していたのが、後に鎌倉に幕府を開いたばけものみたいに頭の切れる頼朝という男だった。かつては伊豆で頼政の世話になっており、有綱が彼に仕えていたというのをぬえは後から知った。
 けれど、平家を亡ぼした源氏が仲良くしていたかと言うとそんなことはない。乱暴者の義仲はみやこで嫌われて義経に滅ぼされ、義経は院や公家たちにおだてられて鎌倉と対立し、実の兄の頼朝に北の果てまで追われて殺された。その頼朝も病で死んだ後、今度は源氏を補佐していた北条という一族が頼朝の孫を殺して幕府を乗っ取り、我が物顔で武士の世を仕切り始めたのである。
 後鳥羽上皇が幕府に反逆を企てた頃、マミゾウは佐渡に戻ると言いだした。世故長けた彼女も、人間の世に絶えることなく続く争いにいささか辟易していたらしい。ぬえもこの時、彼女から一緒に佐渡に来ないかと誘われたのだが、それも断った。
 頼政が戦い抜き、その死をもって繋いだ武士の世。もう、ぬえ自身もすっかり期待はしなくなっていたけれど、せめて最後までは見届けてやろうと思っていたのだ。
 それからも戦は続いた。海の向こうの大陸から二度に渡って大軍勢が襲来し、それを武士達が撃退したのも間近で見た。過ぎる年月の中にかつての気概も継がれる遺志も失って、幕府は徐々に弱りながら、それでも内輪で小競り合いを繰り返し、疲弊を続けていった。それを見て帝が再び兵をあげ、武士を追い落としてまた貴族の世の中を作ろうとして失敗し、武士たちがそれに反抗して――いつまでも、いつまでも、ずっと同じことの繰り返しだった。
 結局、武士が自分達の手で己の行く先を決められるようになっても、頼政の望むような世の中など、来はしなかったのだ。
 頼政が死んでから百五十年余りが過ぎ、ついにぬえは諦めてみやこを後にした。向かった先は地の底の地獄。死者の魂が集まる場所だ。そこにいけば、頼政の魂があるかもしれないと思ったのだ。けれど、地底の鬼たちは頼政のことを知らなかった。彼らを統括する閻魔に聞いても応えてはくれず、代わりに妙な鏡で正体を見破られ、説教されそうになったので慌てて逃げた。
 もっとも、嫌われ者の妖怪や死人ばかりの地底は、地上よりは暮らしやすかった。特に地上に戻る気も起らず地底で暮らすうち、地獄の再編計画と移転計画が持ち上がり、是非曲直庁の官舎や公吏の鬼達はこぞってどこかへ行ってしまった。あとに残された旧地獄にぬえは残り、そこで聖復活を掲げる奇妙な妖怪たちや、リストラにあって置いて行かれた鬼たちと知り合う。
 その後は――もう、皆が知る通りだ。
 地上に出られるようになってすぐ、ぬえは冥界の白玉楼の話を聞いた。白玉で作られた天上の楼閣は、才に優れた文人や書家たちの魂が暮らす場所であるらしい。頼政のように歌に優れた魂ならそこにいるのではないかと思って向かったが、そこにも求める男の姿はなかった。
 彼は私心に兵を挙げ世を乱した故に、冥界にいることは許されていないのだと言う。亡霊の姫にそう諭され、ぬえはまた落胆した。
 結局、どこを探しても頼政は見つからなかったのだ。
「つまり、わたしを殺せる奴はもうどこにもいないってわけだ」
 幻想郷には、多くの妖怪や人外、神様までもが集っている。出鱈目に強い巫女もいる。腕っ節でだけならば、ぬえよりも強い妖怪がいるだろう。しかしたとえぬえを負かすことができても、彼等には正体不明の本質を暴くことはできない。
 頼政の弓でしか、ぬえの正体を射ることはできないのだから。
 ぬえはそっと、服の上から腹の矢傷に触れた。あれからいくつもの傷を受けたが、それらは皆綺麗に治っている。けれどこの傷だけは別だ。あの夜、紫宸殿の屋根の上、頼政の弓矢で貫かれて以来、ぬえはこの傷をもって正体を暴かれ、死ぬことになる宿命をその身に刻まれた。
 けれどその弓矢は、鵺を脅かす源三位の弓は、いまやぬえの手にしか存在しないのだ。
 あれから何度か、頼政の名前を歴史家の語る書の中に見た。そのどれもが、彼を源氏決起の要因と成した男として描いていた。義経や頼朝たちに令旨をもたらす契機とされ、彼の死は時代の寵児たちのきっかけでしかなく、そこにある苦悩も決意もすべて、大きな歴史のうねりの中の、淡白な一文に圧縮されてしまっていた。
 どいつもこいつも、勝手だ。

――埋木の 花咲く事も なかりしに

   身のなる果は あはれなりける

 埋もれ木が花も咲かせることなく、枯れ朽ちていく様のように。己を重ねて詠んだ頼政の想いは、もう誰も覚えていないのだ。穏やかな神社の陽気とは対照的に、ささくれ立つ心を持て余し、ぬえはがりがりと尖った牙を擦り合わせる。
 そこに、マミゾウがようやく戻ってきた。最近すっかり馴染んだ里の商人姿の装いで、何やら大きな風呂敷包みを抱え、ほくほく顔である。
「やーれやれ、すぐ済むつもりがずいぶん手間取った……んむ。なんじゃぬえ、ずいぶん不景気な顔をしておるのう」
「なんだよマミゾウ。……いま、あんまり話したい気分じゃないんだ。ほっといてよ」
「そう言うな。ちと面白いものを見つけてのう」
 がさがさと枝を揺らし、ぬえの隣に腰掛けるマミゾウ。ふかふかの尻尾を脚の下に敷いて、その上で風呂敷包みを解く。中から出てきたのは二矢一弓一揃いの弓箭だった。
「雷上動と水破、兵破。文殊菩薩の化身とされる楚国の弓の名手、養由基の弓じゃ。甲冑七枚を貫き、蜻蛉の羽根を射止め、百歩先から柳葉を射て百発百中を誇ったという銘品じゃよ。先日、里の外れにある古道具屋に立ち寄ってみたら、無造作にこいつが並んでおっての。思わぬ掘り出し物じゃった。大分吹っ掛けられたがのう」
「ふうん」
 嬉しそうなマミゾウに、ぬえはどうでもいいとばかりに羽根を揺する。彼女の骨董趣味は今に始まったものではない。その古道具屋の店主とやらが、葉っぱの代金を支払われていないことを祈るばかりだ。
「だが、こいつの持ち主としてはもっと知られた名があっての。ぬえ、おぬしも良く知っておる相手じゃ」
「……あん? いま言ってた楚の養なんとかって奴だろ?」
「いや。養由基は死に際し、その弓を譲る人物を探したがついに見つけることができず、娘の椒花女にそれを託した。その椒花女も命を落とそうとする時に、海を越え一人の男の夢の中に現れてこの弓を託したという。――それがかの源頼光。大江山の鬼退治の英雄じゃ」
 マミゾウは面白げに口元を緩め、煙管を上下に揺らしながら、ぬえの顔を覗きこむ。
「頼光より、この弓箭はその子孫に伝わる。美濃守源頼國、下野守源頼綱、兵庫頭源仲政。辟邪の武、摂津源氏の嫡流が代々これを受け継ぎ、その証と成した。そしてこの弓の名が一躍知れることになったのが、その次代。
 東三条の森より黒雲と共に現れた化鳥、鵺を射落とした英雄――源三位頼政によってじゃ」
「…………!?」
 がばと身を起こしたぬえの隣で、マミゾウは片目をつぶり、やおら樹上に立ち上がった。口に手を添え、舞台上の面霊気に声をかける。
「こころよ! 先の新作能楽、実に見事じゃった。ここで儂よりひとつ、りくえすとをしても良いかのう!」
 ざわつく観衆の中、舞台上の少女は無表情で翁の面をかぶり、こくりと頷く。マミゾウは良しとばかりに二本の矢と弓を彼女へと投げ渡した。
「二代観世大夫、世阿弥の二番目物・修羅能「頼政」、また五番目物・切能「鵺」じゃ!」
「わかった」
 面霊気はどどんと舞台上に脚を打ち付け、投げ渡された弓を構え、シテへと回る。被る面はこれまで彼女が見せた面のどれでもない、翁とも尉とも将とも違う、特異なものだった。
「あれが『頼政』。かの哀しき英雄を演じるための専用の面じゃ。
 ほれ、何をしとる。――行って来い、ぬえ」
 背中を押され、ぬえはそのまま木の上から舞台上空へと押し出される。舞台上のこころはすぐに化け狸の意図を察したようだった。霊力で編み出した大太刀を脇に吊るし、雷上動に矢を番えてぬえを狙い、朗々と謡い始める。
 舞台上の二人を見て、囃子を奏でていた太鼓の付喪神が大きく太鼓を打ち鳴らした。彼女のウインクに、琵琶と琴の姉妹もうなずいて、がらりと曲調を変えた。
 高らかに打ち鳴らされる太鼓、重なる弦の音。マミゾウもちゃっかり楽隊衣装に化けてそこに加わる。景気良く始まる心綺楼の囃子に、舞台に詰めかけた観衆がどっと沸き、歓声が上がった。
「――マミゾウ!?」
 二つ岩狸は笑っていた。
 秦氏の末である世阿弥が時の将軍、足利義教の不興をかって佐渡に配流されていたのを、一休和尚に嘆願し京都への帰還を後援したのは誰あろう彼女、二ッ岩団三郎狢である。
 ぬえの恨みと、頼政の弓。初めは虚構だったそれを風化させることなく、後世に伝え残さんと奔走したのは、ほかならぬ佐渡の二ッ岩であった。
 頼政。源三位頼政。鵺退治の英雄。古今無双の弓の名手。辟邪の武、摂津源氏の長。
 伝承になった神話は、広く人に広まり、英雄は演じられる。
 ぬえを討った弓は、伝承として武具となった。
 同じことだ。大妖怪・鵺を退治した頼政も。広く人の口に上り、語られ、今も生き続けているのだ。名高き破邪の弓にて射られたぬえが、平安の世を揺るがした大妖怪となったように。大妖怪となったぬえを射た頼政もまた、伝承に謳われる英雄のひとりとなったのだ。
 すべては因果。糾える縄のごとく。
 ぬえが鵺としている限り、それを討つ頼政の弓は現れる。
 すなわちそれの意味するところは――
「……はやく。あなたが構えなきゃ始まらない」
 急展開について行けぬまま、呆然としていたぬえに焦れたのか。こころはぬえのそばに飛び上がり、彼女の手を引いて舞台の上に引っ張り寄せた。取り出した面をぬえの顔に押し付け、合わせて腰の大太刀を抜き、ぬえへと斬りかかる。演目だというのに油断のない鋭さで繰り出された一閃を掻い潜り、ぬえは手元に槍を呼び出して構えた。
 激しく打ち合わされる太刀と槍。ぎぃんと音を立てて火花が散り、観客たちからわっと声が上がる。
 黒衣の少女の頬を涙が伝う。幾筋も、幾筋も、熱い雫はあとからあとから溢れて止まらない。
「どうした。平安京を揺るがした大妖怪が、泣いてばかりで終わりなのか」
 不敵なこころの挑発に、赤くなった目元を擦り、ぬえは牙をむき出して不敵に笑う。
「あっははっはははは!! そうか、そうかよ! いいぞ、そんなに見たけりゃ、このぬえ様が相手してやるっ」
 太刀を鞘に戻し、弓を構えるこころに対し。
 大きく空を仰ぎ、ぬえは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
 遠く遠く、想い人へと聞こえるように。叫ぶ。

「おまえは、ここで終わりだがな!!」

 空を蹴って走るぬえの槍と、それを迎え撃つこころ演じる頼政の弓。舞台の上を下へと飛び交い、閃光を散らし、轟音をとどろかせて交わされる弾幕が、鮮やかにぶつかり七色の輝きを散らし、花火のように空を彩る。

 ああ、頼政。聞こえるか。わたしのこの声が聞こえるか。
 わたしはここにいる。今もずっと、ここにいるぞ。
 嘆きも、悲しみも、もうない。お前の望みどおり、わたしは存分に笑ってやる。

 妖怪と、人間と。
 両者があるべき姿で対峙することが叶う、この、東の果ての楽園で。
 もはやのどよぶ鵺鳥の声は聞こえず、
 籠の鳥の羽ばたきを封じるものは、どこにもない。


 (了)