十 「玉葉」治承二年五月十二日

 

「よ、頼政様! 居られますか、頼政様!」
 騒がしい足音が廊を揺らす。蝋燭の炎がゆらりと傾いた。遣戸を引き開け、息咳き切って客間に駆け込んできた郎党は、ずいぶんと取り乱した様子だった。
 頼政は不機嫌そうに眉をよじる。ちょうどこの時、頼政は久しぶりに近衛河原の屋敷を訪ねてきた団三郎と歓談の最中であった。しばらくぶりに佐渡より戻ったという彼女から、かの流刑地の様子を聞いていたのだ。
「なにやら騒がしいですのう」
「ふむ。……その声は唱か。どうした、何があった」
 客人を前に非礼をとがめるが、郎党の渡辺唱丁七は大分と急いた様子である。
「一大事にございます! 狐が、狐が出ました!」
「狐?」
 怪訝そうに聞き返す頼政。ぴくりと、団三郎が顔をしかめた。
「そうなのです。宮中に、妖しき狐が姿を見せまして――それはどうにも、この世のものとも思えぬ有様で……!」
「曖昧だな。仔細を話せ」
 慌てるばかりの唱に問いただしてみると、それはいかにも怪しげな顛末であった。
 渡辺党が摂津源氏の郎党として宮中警護の任にあるのは周知のことである。本日も唱らは昼から大内裏の巡回を行い、ちょうど夕刻の休憩時間となった時だった。斎宮御所近くの木陰で涼をとっていた唱らは、突如殿の床下より不審な影が飛び出すのを目撃したのだ。
 すぐさま仲間の一人が弓を構え、これを射んとした。しかし放った矢はこの影を捕えたものの、鏃は何かに弾かれるように的を外したのだ。唱らは驚きなおも矢を射かけたが、影はそのまま甲高い鳴き声と共に姿を消してしまったのだという。
「その、消える直前に……ちらりとですが、確かにこの目で見ました。あれは狐に違いありません。白い毛皮の、人の背丈ほどもある大きな狐だったのです!」
「……ふむ。それを見たのはお前だけか?」
 頼政は顎をさすり、思案を巡らせつつ髭に触れる。
「他にも何名かが見ております。仕などは、いずこかの名のある霊狐であったのではないかと言い出して譲りませぬ。白獣は神使であるのだから、弓を向けるなどもってのほか、言語道断なのだと。……その、俺はおよそまともな獣では無かったとは思うのですが、宮中に狐など聞いたこともありません。……しかも場所は陰陽寮のすぐ近くとあって、いかなる事であるのかもはや判断がつかぬのです。矢が通らぬとなれば、件の鵺のこともあります、まずは御報告をと思った次第で……」
 述べながらも、唱自身も半信半疑であるのだろう。確かに神使の霊獣に弓を向けたとなれば、神罰が下ると考えてもおかしくない。苦慮している様子の郎党に頼政は大きく頷いてみせた。
「成程な……。今日の主番は兼綱であったか。お前はこのまま報告に向かえ。仲綱にも併せて報せよ。俺もすぐに様子を見に行く」
「はっ」
 あわただしく駆けだしてゆく郎党を見送り、頼政は腰を上げた。家人を呼び、出仕の支度を申しつける。
「……すまぬが団三郎よ、そういう訳だ。俺は今から宮中に出ねばならなくなった。せっかくの機会に今宵はゆるりと佐渡の話でも聞きたかったが、どうやらそうもいかぬらしい」
「気にせんでくだされ、頼政殿もお役目あっての事じゃろう。噂話を御所望ならいくらでもお聞かせいたしますのでな」
 話を中断されたことに気を害した様子もなく、からからと笑う団三郎。
 そのまま大人しく辞去するかと思われた彼女だが、団三郎は眉を動かし、意外なことを言いだした。
「しかし、その狐とやらどうにも気になりますのぅ……。のう、ものは相談じゃが頼政殿、儂も御一緒してもよろしいかな?」
「む? ……それはどういう意味か、団三郎よ」
「そのままの意味ですとも。宮中までご一緒しても良いですかの。なに、儂もなにか頼政殿のお力になれるかもしれませぬでな。細々とではありますが、こうして商いを営む身。みやこを遠く離れた地まで足を伸ばし、あやしきものを見る機会も多くありますからのう」
 茶目っ気を見せ、片目をつむって見せる団三郎。
「ついてくるのは構わぬが――」
「ああ、御心配はご無用ですぞ。宮中に入る赦しは得ておりますからの。頼政殿にご迷惑はかけぬと約束しましょう」
 どうやってついてくるつもりだ――と言いかけた頼政を遮り、女商人は自信ありげに笑ってみせる。宮中に入りたいから便宜を図れと言われれば即座に断っただろうが、どうも彼女には確かな当てがあるらしい。
 しかし、まともに考えて一介の商人が宮中に入る許しなど得られるものなのだろうか。団三郎の顧客は幅広く、懇意にしている中には藤原摂関家の中枢に近いものもいるというが――それとこれとは別物である。
 半信半疑のまま、頼政は身支度を終え、大内裏の朱雀門へと向かった。
 その威容を闇の中に沈ませ、堅固にみやこの防衛を固める南の門――しかし驚いたことに団三郎が軽く会釈すると、門を守る衛士は礼をして彼女を通したのである。
「お主、一体なにをした?」
「かかか。商いの秘訣というやつですかのぅ」
 問い詰めようにも埒が明かない。諦めて頼政は現場へと向かう。
 現場となった斎宮御所北の木陰には、既に巡回主番の兼綱と郎党達が集まっていた。時刻が宵の口とあって、明かりの松明を掲げ、周囲を警戒するものと、地面に身をかがめてしきりに検分をしている者たちに分かれている。
「おお、これは親父殿! わざわざお越しとは、申し訳ありませぬ」
「気にするな。これも役目だ。……件の狐とやらが出たのはここか?」
「はい。この者らが言うには、休んでいたのはあの木陰。斎宮御所の下より影が現れ、西へ走り去ろうとするのを見て、このように……こちらに向けて矢を射たそうなのですが」
 兼綱の指示で検分が進められていたのだろう。息子の言葉に頷いて目を凝らしてみれば、地面には確かに人間のものに混じって、獣のものと思われる足跡が乱れていた。争ったような痕跡は木陰より陰陽寮の方へと続き、途中で消えていた。
 振り返れば、西雅院の壁に向けて、数本の矢が落ちている。
 そちらに近づいて、頼政は静かに唸り声を上げた。
「これは、誰も触れてはおらぬのか」
「そのはずです。まったく、どうにもおかしいことばかりだ」
 落ちている矢は全部で六本。うち四本は中ほどで折れていた。残りの二本は無傷だが、そちらも奇妙な事に、まったく汚れた様子がない。矢羽を確かめ、頼政は髭を擦って唸る。
「唱、これらはお主らが放った矢に相違ないな」
「は、はい……」
 郎党らの困惑も納得のものだ。矢が当たっていれば、たとえ抜け落ちたとしても血や毛などが鏃に絡みついているはずだし。そうでないのだったら地面や壁に突き立っているはずだ。放たれた矢だけがその場に残され、血の跡も泥汚れさえないというのはあまりにもおかしなことである。
 郎党達が揃って頼政を謀っているのでもなければ、狙われた誰かは、なにがしかの力をもって、矢が当たらぬように防いだとしか思えないのだ。しかし獣が鎧などを着て矢を防ぐなど、絵巻の中ですら聞いた覚えもない。
「そのばけものとやらは、例の――鵺の姿をしていたのか?」
「いえ、巡回番のなかで休憩をしていた者達は八名おりましたが、このうちで影を見たというのが六名。そのうち五人が同じものを見ています。どうやら白い毛皮の狐のようだったと」
「狐、か」
 頼政は敢えて狐という言葉を使わずに問い質してみたが、兼綱ほか、複数の郎党達はそれぞれに狐と答えた。唱の報告には一定の信頼が置けると見てよい。
「それも、どう見ても人の背丈もあろうという大狐であったということです。ここに詰めていた巡回番は唱、仕以下、郎党の中でも勇猛なものたちばかり。物怖じして夕闇の中にありもしないものを見たとは考えにくい」
 宮中に獣が入り込むこと自体は、これまでにも前例が無いではない。しかしただの狐であれば、渡辺党の郎党達が仕留め損なうとも思えないし、仮に六本もの矢が全て外れていたとしても、さまざまな事につじつまが合わない。
(ぬえは……昼頃から俺の部屋で寝ていたな)
 昨夜から仲家にくっついて夜更かしをしていたらしく、頼政はそれで早々から床を追い出されたのだ。彼女の悪戯ではないことを確かめ、頼政は一人頷いてそっと胸をなでおろす。
「やはり、霊獣であったのでしょうか……」
 確かに、過去には神使とされた白蛇や白鹿などが、宮中の清涼殿などに現れ時の帝の治世を寿いだという記録もある。それに矢を射掛け、追い払ったとなれば――これは重大な責任問題であった。
 一体、これをどう扱うべきか――皆が頭を悩ませていた時だ。
「成程。これは大分性質の悪い狐ですのう」
 頼政と共に地面にかがみこんでいた団三郎が、鼻の上に皺を寄せてそう呟いた。頼政が眉を上げれば、彼女は珍しく不快そうに顔をしかめ、喉の奥で唸るように口元を歪める。
「歳を経た狐は厄介なものでしてな。その化術をもって徒に人を欺く。時に面白半分に、時に悪意をもって、人を害するのです。その欺きが巧みであるゆえ、犠牲に気付くのも遅れてしまう。長年の月を浴びて狡猾になった狐はなお始末に負えませぬな。ご存じありませぬか、宮中に狐の怪が現れ、人心を惑わし争乱を起こすという話などは。
 人の背丈ほどもあるというなら、相当に悪知恵も働く。今頃は人に化けてどこかに潜んでおるやもしれませんのう」
 真に迫った団三郎の語り口に引き込まれたか、兼綱がごくりと息を飲む。
「まて。犠牲といったな。その狐というのは、人を食うのか」
「さて……どうですかの。年経た獣は皆、知恵をつけるにつれて、世を我が物顔で歩く人間を疎むものです。そうなれば後は自ずと人の肉の味を覚えて凶暴になるものですがのう。さて、ここの狐がそうであったかまでは分かりませぬ。誰ぞ、ある日より宮中でふらりと姿を見なくなった方がいると言うのであれば、あるいは……」
「その辺にしておけ、団三郎」
 怯える郎党の様子に嘆息し、頼政は団三郎に釘を刺した。
「これは失敬。少々、脅しがすぎましたかのう。かかか」
「お主が言うと冗談に聞こえん。……いずれにせよ、郎党の多くが妖しきものを見たという事には違いあるまい。警備を三交代から二交代に変えて数を増やす。兼綱は引き続き現場を当たれ。念のため洛内警護の者たちにも伝えておけ。上には俺から報告しておく」
「はっ」
 主の命令に答え、落ち着きを取り戻す郎党達。
 またも宮中に現れた影に、彼等も三度鵺の姿を見て怯えているのだろう。吐息と共に髭に触れ、頼政は静かに苦笑する
「まったく、高いツケになったものだ」
「は……?」
「いや、なんでもない。急げよ」
 兼綱らを見送って、頼政もまた急ぎ内裏へと向かっていった。またも長い夜を過ごすことになるのだろうかと、思いを巡らせながら。
 長引くかに思われた宮中の異変だが、事態は一夜にして急転直下の解決を見た。
 夜更けから明け方まで警備につき、ようやく屋敷に戻った頼政のもとに、新たな報せが飛び込んできたのである。御所東町の荒れ御殿で、白い毛皮の大きな狐が死んでいるのが見つかったというのだ。
 休む間もなく、疲れを押して駆け付けた頼政は、郊外にある荒れ放題の屋敷の草叢に倒れ伏す、巨大な狐の死骸を目にして驚いた。
「これがお主の見た狐か?」
「は、はい。間違いありません」
 青褪めた唱が何度も首肯する。死んでいたのは確かに言葉通り、人の背丈ほどもある大狐である。狐の口は巽の方角を向き、死骸の下には赤い血だまりが広がっていた。白い毛皮は固まりかけた血に汚れ、どす黒く染まっている。
 骸の頸には一本の見事な矢が深々と刺さり、さらにはその全身に無数の歯型と、鋭い牙で食いちぎられたと思しき傷があった。最近では洛内でも死骸を漁る野犬の被害が急増しており、おそらくこの狐もその餌食となったのだろう。
 ともあれ原因となった狐の死骸が確認されたことで、以後の調査は陰陽寮へと預けられた。
 最終的に彼等は延久四年の記録を持ち出して事態の収拾を図った。これは宮中の軒下に巣食っていた霊狐であり、世の乱れによって我を忘れ、あやかしとなり果てて暴れていたのを頼政の郎党達が見つけ出し射殺したのである、ということになったのである。
 致命傷となったのは頸の矢傷で、郎党らに追われ傷ついた狐はどうにかここまで逃げのびたもののとうとう力尽き、死骸が野犬に食い荒らされたという旨が記録に書き残された。
 このことは数日中には宮中に知れ渡り、みたび宮中のばけものを討った頼政には報奨が出されることとなった。
「お見事です、父上」
「……しかし、今回は俺が何をしたわけでもない。まずは唱達に振る舞ってやれ」
 そうして頼政は、狐に残されていた矢が誰のものかを尋ねるが、巡回番の八名は全員が全員、これに心当たりがないという。
 不思議に思った頼政が郎党達を集め、この大狐を射止めたものに名乗り出るように命じたところ、ここに進み出たのは渡辺党の競滝口というものであった。どうにも見ない顔だと思って頼政が尋ねれば、彼はつい先日より一党に加わった新顔であるという。
 彼は狐の現れた夜、郎党達に混じって洛内の巡回警護にあたっており、その場で狐と遭遇して一矢を放ち、これを撃退したという。唱らが宮中で狐を追い立てたすぐ後のことらしかった。
 競が差し出した矢羽と、狐に残されていた矢羽の特徴はぴたり一致し、妖狐退治の報奨は見事競のものとなった。
 この成果に際し、鵺退治の話を持ち出した者たちも居た。なるほど摂津源氏は主の頼政だけに留まらず、率いる渡辺党郎党に至るまで、名に聞こえる通りの辟邪の武であるなどと褒め称えるのである。
 市中の評判を余所に、頼政の胸中を占めるのは別のことであった。
(狐……狐、か)
 そして、予感があった。確信していたと言ってもいい。
 だからその日の夜、庭先に突如ぼうと燃え上がる炎を見ても、頼政は慌てることなく静かに彼女の来訪を迎えることができた。
「久しいね、頼政」
 ――赤々と、煌々とかがやく不死なる炎が、翼のように広がり舞う。
 炎の照らす庭には、灰のように真っ白な髪の少女の姿があった。
 藤原紅子。不遜にも藤の姓を名乗り、昔日の頼政に、宮中に潜む狐について警告した娘であった。
「なんだ、あまり驚かないんだな」
「……また、会えるのではないかと思っていたからな。それでもこうしてこの目に見るまでは、半信半疑だったが」
 動じる様子のないに頼政に、紅子は怪訝そうな顔をみせる。娘の姿は、若き日の頼政が目にしたときとまるで変わらぬ瑞々しき乙女のままだ。あれからゆうに三十年余りが過ぎているというのに、だ。
「少しは信じる気になったのかい、頼政」
「……俺も歳をとった。少しばかり、この世のありかたが俺の思うよりも複雑である事を知るくらいには、老いたつもりだ」
「ああ、まったくそのとおりだ。どいつもこいつも、老いさらばえて、死にそうになってからようやくそれに気付くのさ。……何度教えてやっても、いっつも同じだ」
 幾度となく繰り返したやりとりに辟易するように嘆息する紅子。いや、実際にそうなのだろう。藤の娘は吸い込まれそうに赤い瞳で頼政を見る。
 あの時と寸分変わらぬ、禿髪の幼い容貌――しかし、こうして再び彼女に会い、頼政は幼い姿の彼女のうちに、常人には測り知れぬ、幾百という歳月が折り重なっているのを感じ取ることができた。彼女は言葉の通り、五百年の昔よりずっと生き続けているのであろう。
 永劫の命というものは、祝福ではなく罪科なのだ。人は老いて死ぬ。そうでないということは、世の理を曲げる悪業である。老いることなく、変わることなく留まり続けることは、途方もない業を生むのだと、今ならば分かる。
 彼女は、娘の形をした、酷く恐ろしき存在であった。
(俺が老いたからこそ、なおのことそう思えるのだろうな)
 頼政も今年で七十五。死を身近に感じるようになって、生き続けることの罪深さを感じるようになった。若い頃は、まだ精も力も衰えぬうちから家督を譲り出家する者達が何を思うのかいまいち納得がいかずにいたものだが――こうして老いた今、歳を重ねた人間が、俗世を離れ、仏の道に何かを求めようとするのは自然なことであろうと思うようになった。
「ここ数日、陰陽寮がやけに騒いでいた。それで、もしやと思ってな」
「あそこの連中は相変わらず間抜けばっかりだ。こうならないよう、晴明にはきつく言ってやったのにな。道満がいた頃はもう少し危機感があったってのに」
 紅子が抱えていたものをどさりと投げ落とす。それは――一抱えもある大きな、狐の髑髏である。間違いない、競が討ったあの霊狐のものだ。皮を剥がれ、肉を削がれ、生乾きの骸骨は、空虚な眼窩に頼政を睨む。
「あいつら、これを呪詛に使うつもりだったらしいね。……酷い話さ。崇徳の怨念が効かないなら、今度は化け狐だ。こんなもので清盛が死ぬと本気で考えてるんだからお目出度いもんだな」
 さらりと信じられぬことを口にする紅子。しかし――おそらく彼女の言葉は真実であろう。彼女とかの大陰陽師、また陰陽寮たちの間に何かの因縁があるのは間違いなさそうだ。
「この、狐が――お前の言っていた、世を乱す妖狐なのか」
「こんな小物がそうなわけあるか。こいつはあの九尾に従っていた眷族、使い走り、下っ端の一匹さ。主を失って知恵もなくし、式も外れ、ただの獣に返って行き場を失くしていたところを、お前の部下に見つかって殺された間抜けだよ」
 紅子がひゅんと手をふるうと、そこから炎が飛んで狐の髑髏を包み込んだ。見る間に炎が火花を咲かせ、髑髏へと燃え移った。
 赤い炎が業と渦を巻き、生乾きの骨は薪のように燃えあがる。
「お前の言う狐というのは、美福門院殿のことか。あのお方は、薨去されて後、その遺骨は高野山に入られたはずだが」
「殷王朝の千年狐狸精と妲己の話くらい知ってるだろう。器が死んだくらいじゃなんともない奴なのさ。もうあそこにいる理由もなくなって、居なくなっただけだ。院が用済みになったのか、下手を踏んだのかまでは知らないけどな。ま、それでも女人禁制の高野に逃げ込もうってあたり、あいつの不遜さと好色さがわかるよな」
 からからと笑う紅子。宮中の、しかも治天の君の傍に妖怪がずっと巣食っていたなど、悪い冗談にしか聞こえない。だがしかし、かつて紅子が狐と呼んだ美福門院・藤原得子は、近衛帝、後白河帝、二条帝の三代にもわたって帝の擁立すら意のままとし、藤原家中御門流と結びついて絶大なる権力を誇ったのである。
 対立する者たちを悉く失脚させ、みやこに起きた二度の戦乱でも主要な役割を握り、三〇年近くを宮中に君臨した彼女が、人智の及ばぬ存在であったというのは間違いのないことである。
「紅子。……何故、俺に忠告などしたのだ」
「さてね。ただの気まぐれだよ」
 あの時。美福門院への疑いを確かなものにしたところで、頼政には他に選択肢などなかった。他に従う主などいなかったし。摂津源氏は彼女の庇護なくして生き延びることはできなかっただろう。それでも頼政の耳には、三十年前に紅子が告げた言葉がずっとこびりついていた。
 複雑怪奇なみやこの政争の中で、頼政と摂津源氏がその命脈を保ち生き延びてきたことは、ただの偶然ではありえなかったのだ。
「まさかお前が生き延びるとは思わなった。それはほんとうに驚きだよ。だからお前にもう一度忠告してやる。今お前の誘われている『さるやんごとなき人』の頼みを断るべきだ」
 頼政は思わず息を飲む。
 努めて、動揺は表に出さぬように努めたものの――『あのお方』との関係は、決して外に漏れ出るようなものではなかったはずだった。
「八条院のところでいろいろと野望を拗らせているようだけど、あいつには帝の器量はない。お前たちは使い潰されるだけだ」
「……参ったものだ。そこまでお見通しか」
「みやこの中のことは、寝てても耳に入ってくるんだ。五百年も生きてるとお節介な奴も多くてね」
 言って微笑む紅子に、頼政は改めて、彼女が見た目通りの存在ではないのだということを実感する。
 頼政の文の相手。それは三条高倉の御所におはす、以仁王。平家の専横の中、不遇によって皇統より退けられた後白河院のお子である。
 平家打倒の中核者が皇の血筋にあることは秘中の秘。けして誰にも漏らしてはならぬ秘密であった。
 紅子は、頼政の発する険に気付いたか、ゆるゆると首を振る。美しい白髪が炎に生えた。
「ああ、心配しなくてもお前の秘密をばらすようなことはしないよ。確かに私は死なないけど、傷つかない訳でもないし、痛いことはきちんと痛いんだ。死ぬたびに元通り生き返るだけでね。それに頼政、私はお前のことを買っているんだ。お前にはあまり殺されたくない」
「…………」
 ぱちりと炎が火花を散らす。気付けば、狐の髑髏はすっかり燃え尽き、灰になって崩れ落ちていた。紅子は懐から数枚の符を出して、それを周囲に散らす。
「忠告はしたよ。……せいぜい、頑張るこった」

 紅子の身体をぱっと赤い炎が包んだ。たちまち業と火柱になって燃え盛る炎は、現れた時と同じように闇の中に消えてゆく。
 娘の言葉の余韻を耳に刻みながら、頼政はじっと、夜の中に深く物思いに沈むのみであった。

 

 

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