十三 頼政決起

 

 六波羅でのぬえの様子について報告を受けた頼政は、それからひとり近衛河原の居室に閉じこもった。戸を閉ざし、けして誰も入れるなと言い残して、一切の接触を断った。
 ちょうどこれに前後して九条兼実より歌合に招かれていたのだが、それを急病と断ってのことである。既に高齢の頼政が病を理由に公の場に顔を出さぬことはけして不自然ではなかったものの、兼実は何か感じるものがあったのだろうか。後にこの日の違和感を日記に書き残している。
 頼政は一人、深い懊悩の中にあった。
 ぬえを見捨てるなどできないが、彼女を救いだしたとして、それは平家への明確な反逆である。本気になって動く六波羅の前に、命を賭したとて彼女を守り抜くことはできないのは明白であった。
 ぬえも、それが分かっていたからこそ平家の元へ己を差し出したのだ。
(俺一人の命で済むならいくらでも賭してみせよう。今すぐ六波羅へ駆け込み平家の奴原と合戦してでもぬえを救いだしてみせる。……が、それで息子たちは、渡辺党はどうなる)
 源氏にあって初の三位まで辿り着いた頼政が暴挙に出れば、仲綱も他の息子たちにも害が及ぶ。摂津源氏の名は地に落ち、平家の力の前に一族郎党残さず粉砕されるであろう。
 皮肉なものだ。一門のためと得た武名が、頼政の行動を呪縛していた。
 もはや老いらくの身だ、もとより死など恐れはしない。だが、だからこそ――父祖より受け継ぎ、子に託す源氏の嫡流を、己が潰えさせてしまう事への恐怖が、頼政を強く苛んでいた。
(ぬえを助けてやりたい――だがそんな、自分の撒いた種の始末に、俺の我がままの為に、子供たちに死ねと命じるのか。……っは、良い面の皮だ。なんのための源氏だ。なんのための武名だ。これが、人の親の考えることか)
 己を突き放すように自嘲してみせても、それでもなお、頼政の苦悩は晴れぬ。こうしている間にも、六波羅でぬえは死にも勝る恥辱に苛まれているというのに。
 頼政の自問自答は三日三晩続いた。
 そして四日目の朝。絶えることのなかった居室の灯りが消え、頼政はついに黙考より目を開いた。
 衣を変えゆるりと立ち上がった彼だが、一睡もしておらぬというのに憔悴した様子もなく、確かな歩みを保っていた。
 食事をとらずにいたため幾分やつれてこそいたが、老いてなお鋭い相貌には秘めたる決意が宿り、白髪となって豊かな髪は力強く結わえられていた。皺の浮いた手はなお意気に満ち、背はまっすぐに伸び、足取りはわずかも揺らぐことはない。この激動の時代を生き抜いた武士の気迫、まさにこれありとばかりの威風である。
「父上、お待ちしておりました」
 戸を開けた頼政に声がかかる。居室の外には、既に仲綱を始め、頼兼、兼綱ら、みやこに住む息子達の姿が揃っていた。
「お前たち」
 頼政を囲むように並んだ彼等はみな、一様に真剣な表情である。摂津源氏一門を率いる長の決意を既に悟っているのだろう。
 息子たちの意志を理解し、頼政は深々と息を吐いた。
「……最後まで、苦労をかけるな」
「父上が、深くお考えの上決断なされたことです。どこに反対する理由などありましょうか」
 皆を代表するように、仲綱はそう言って居住まいを正し、父に向かって進み出た。深く頭を垂れ、おごそかに告げる。
「摂津源氏嫡流、源仲綱。以下頼兼、兼綱、政綱、仲家。そしてその子、宗綱、有綱。……源氏一門、渡辺党を率いて源三位入道頼政殿に御助力いたします」
「すまぬ」
 頼政は眼頭の熱いものを堪え、声を震わせた。結局、自分の我がままに一門を巻き込んでしまった。己は臆病ものにすらなれなかったのだ――そんな後悔が頼政の胸を焦がす。しかし、
「なにを仰るか、親父殿!」
 豪快に胸を叩いて答えるのは兼綱である。かれは並ぶ政綱、仲家らと顔を見合わせ、力強く頷いた。
「木ノ下は俺達と同じです。身寄りを失い、親父殿に拾われてこの近衛屋敷にて、兄者達と共に育った。伊豆に、若狭に、同じ屋根の下で暮らした我らが妹、同じ源氏の一門であります! その木ノ下の危機を救わずして、どうして清和より続く源氏の勇名を名乗れようものか! なあ皆!」
「そうです、父上、我ら兄弟、皆同じ思いであります!」
 寄る縁を亡くした源氏の遺児たちが、迫害のなか再び得た近衛河原の我が家を、それを導いた父を口々に誇る。彼らもまた人の親となり、こうして源氏の長老となった頼政の元に参じていた。
「そういうことです、父上。六波羅での平家の狼藉、聞き及んでおります。いかな平家の御大将、宗盛卿の行いとても、このような辱めを受けて黙っているなど、それこそ源氏の――いや、源三位頼政の嫡男の名折れ。この上は、たとえ父上が止めようとも決起するつもりでした」
「――仲綱」
 まったく、良く出来た息子であった。自分のような日和見の半端者から生まれるには出来過ぎた子だ。胸にこみ上げる熱い思いが、頼政の視界をぼやけさせる。
(俺は、その物分かりの良さに付け込んで――……いや)
 ゆるりと首を振り、頼政はしかと息子達を見つめ返す。
 違う。そうではない。
 懊悩の時は終わった。後悔も、苦悩も、迷いも。もう捨て置く時だ。息子たちの、皆の思いに、答えねばならぬ。
 摂津源氏の長老として――一門を率いる辟邪の弓の頼政として。
「お主たちの心、有難く受け取った。今この時より摂津源氏渡辺党、一丸となってこの窮地にあたる。敵は平家、いまや帝すら掌中におさめこの国を支配する難敵よ。相手にとって不足なし、みな死力を尽くして挑め。――良いな!」
「はいっ!」
 重なる声と共に。
 頼政はこの日、決起を決意した。

 


◆ ◆ ◆

 


「そうか、そうか! 叔父御であれば必ずや応えてくださると思っていた! これで百人力、いやさ、万人力じゃ! 共に宮のお力となり、この国に正道を取り戻そうではないか!」
 報せを聞いて駆け付けた行家は破顔し、頼政の決意をひたすらに褒めそやした。その喜びようを見るに、やはりこれまでの活動は目立った実を結んではいないらしい。元から期待しては居なかったことだが、やはり実情は想像以上に厳しいのだと実感する。
「そうとなったらこうしては居れん。直ちに三条高倉にもお報せせねば」
 やおら立ち上がった行家、そのまま取るものも取りあえず駆け出そうとする。興奮のせいかもはや符牒を使うことも忘れ、はっきりと王の居場所を口にしていた。頼政、慌ててそれを呼び止め、いくつかの事を言い含めた。
「行家殿、待たれよ。まず、このことは可能な限り内密に。けして誰にも知られてはならぬ。……可能であるならば宮にも伏せて頂きたいが――」
「何を言う、叔父御の協力こそ宮をお力づけるなによりの朗報じゃ。お報せせぬわけにはいかぬであろう」
「どこに平家の手の者が居るとも知れぬ。感づかれては折角の機会が無駄になる」
「ここは叔父御の屋敷の中じゃ、どこにそのような者――」
「敵を欺くにはまず味方と言うぞ。それに、俺は今すぐに宮の元に馳せ参じるつもりはない」
「なんと!? いう事が違うではないか、叔父御!」
「……そう怒鳴るな、続きがある。良いかの行家殿、我らが宮にお味方していること、これまで俺は誰にも覚られぬようにしてきた。平家の者たちは俺達の恭順を疑わぬ。騒ぎさえしなければ、これまで通り宮中の警護や巡回に必要な事項を知らせてくるはずだ。それをもってすれば平家の動き、守りの手薄な場所、誰が指揮にでておるのかを逆に知ることもできる。その利を自ら捨てるなど愚策の極みだ」
「む……」
 兵法を持ちだされ、策略家の血が疼いたのか行家が眉を跳ねさせた。扱いやすい単純な男である。
「決起を決めたとて、今日明日いきなり平家の大将首を取らんと攻めのぼるわけではないだろう。無論俺達にも準備が必要となる。それまでは今までどおり、俺は平家の忠実な番犬、犬四位頼政を続けよう。その間に行家殿には決起に協調する者たちの調査と、宮への説得をして貰わねばならぬ」
「おうとも、調べるのは良い。が、説得とはなんだ」
 怪訝そうな顔をする行家に、頼政は静かに吐息。
「御所を出ることをだ。いまの宮中は平家の傀儡だ。宮が三条高倉におありになっては、敵の懐にお守りするべき方を人質にされているも等しい。決起にあたっては御所を離れ、いずこかの守りに長けた地に移ってもらわねばならぬ」
「待て、待て。それはどだい無茶な話だぞ叔父御。宮は帝になるべきお方じゃ。そうであろう。それがみやこを離れ、背を向けて逃れるなど、己の正しさを捨てているようなもの。とてもできぬ事じゃ。それで道理が通るものであろうか?」
「では行家殿、お主が一人で攻め寄せる平家の赤旗五千騎より宮をお守りするか?」
 皮肉でもって行家の言葉を刺しとめ、頼政は彼に詰め寄った。
「繰り返すが、今すぐにというのではない。これも先程と同じことだ。決行の当日までに万難を排して準備を整えておかねばならぬ。平家の大軍を押しとどめるには生半な守りでは足らぬ。どこかの寺社――行家殿のいうとおり、寺社が反平家の志を共にするというなら、園城寺、あるいは南都あたりの協力を頼むのが良いかもしれぬな」
「む、ム、ム……分かった。難しいが、試みよう」
 寺社に協力を仰ぎ、大衆たちを反平家の軍勢として取り込むというのは行家の案だ。かれらに言う事を聞かせ、指揮するには反乱の首謀者たる以仁王が自ら身を寄せることが、この決起に対していかに本心から偽りないかを示すことができる、もっとも容易く、有効な手段であるのかということがわかったのだろう。
 行家は額に皺を寄せて顎をさする。考え込んだふりをしているが、実際は冷静に有利不利を見極め打算をしているところだろう。
「これがふたつ目。我等に係累の浅い場所であればある程この策の効果が薄いのはおわかりであるな、行家殿。是非、お主の働きを期待しているぞ」
「ふうム……なるほど、心得た」
 神妙な顔をして頷いた行家を見送り、頼政は庭へ出た。
 南の空を見上げて腕組みをし、思案を巡らせる。
「さて、どこまで通じるか……いずれにせよ、宮が御所をお出にならぬでは話にならぬな」
 近衛河原は鴨川を挟んで平家の本拠六波羅の目と鼻の先である。以仁王は、平氏政権の中枢に深く食い込んだ摂津源氏と頼政を、平家の喉元に突き立てた刃であると考えていたのである。
 だが、いかにその切っ先が致命であろうとも、いま頼政の元にあるのは騎馬わずか五十と少しを数えるばかり。数千騎を超える兵力を常在させた平氏に対し、どれほどの影響を与えることができるのだろうか。
 地方との連携がとれぬままでは、五条大橋の門を打って出た赤旗の軍勢に蹴散らされるばかりであろう。
 だが、以仁王の考えは違うらしい。権勢を笠に着、帝すら我がものとする平家を堂々と糾弾し、みやこより追い払うことこそが正当なる皇統の後継者としての行いであり、それを貫くことで多くの賛同者が生まれると信じておいでのようであった。
「……本来ならば、あやつが一番にそれをお諫めせねばならぬのだ」
 熊野の山に伏せ、山伏に化けて全国を行脚する行家であれば、全国の知行における平家の権勢を目の当たりとし、いまや平家の力がいかに盤石なものであるかは思い知っているはずなのだ。しかし彼にはそれがどうも実感できておらぬらしい。
 行家には、腹心として一番重要な、現状を理解し他者に伝える力が欠けていた。なまじ頭が回るゆえに、世のものごとが全て自分の想像通りに行くことを信じて疑わぬ。故にこそ様々な策を用いて利を得ようとするのだ。
 あるいはこれもまた、己が為義の正統を継いで河内源氏の後継たらんとする野望を夢見ているためであろうか。義朝の遺児たちはみな俗世より隔離され、河内源氏の正当は絶えたかのごとくである。行家はそれに代わらんと、身の丈に合わぬ大望を抱いているのかもしれない。
「寺社の協力というのもどこまで信のおける話でしょうか」
「……仲綱か」
「はい、今戻りました。有綱より使いがあり、伊豆の知行にある蔵地を開いて送らせるとのことです」
「そうか。……できることなら、あそこに蓄えた物資は、伊豆の佐殿に役立てて欲しかったが」
 頼政は、常より倹約に努めて集めた物資を、伊豆の領地にある蔵に蓄えていた。表向きは飢饉に備え領民を守るためとしているが、いざという時の戦乱に備え、また息子や孫が暮らす伊豆の守りとするためである。父に代わり伊豆を守る有綱は、頼政決起の報せを聞いてその蔵の物資をみやこへ送りだしたのだ。
「続、保などもこちらに向かっているとのこと。久しく皆が揃うと授も喜んでおりました」
「うむ」
 珍しく穏やかな表情の仲綱。続も保も、昔から頼政に仕えている郎党達だ。仲綱も幼い頃から彼等に懐き、兄弟のように暮らしていた。彼等に会えると喜んでいるのは息子も同じなのかもしれない。
 皆が一意に心を揃え、長らく離れていた者達が集まろうとしている。まるで祭のようだと、頼政は場違いな事を考えていた。
(いや――そうなのかもしれんな。これは、俺達の祭りだ。いまのみやこに、再び源氏の徴の白旗を掲げる為の)
 そう考えると、自然と口元がほころぶ。予断を許さぬ厳しい状況は変わらぬというのに、だ。
 何の事はない。
 頼政自身も、ずっと倦み飽きていたのだ。己を殺し、みやこの窮屈な階位としきたりの中に生きることに。
 源氏の武者として、弓馬の道を志す者として。ただひとえに鍛えた己をもって存分に戦う事を、頼政は心の奥底でずっとずっと望み続けていた。
 絵巻にあるような英雄のように、奔放に生きることを願っていたのだ。
(ここまで老いさらばえて――因果なものだな、源氏の血というのは。死ぬ前に気付けただけ良しとするか)
 五十年にも渡って燻っていた情熱の炎が、胸の内で再び焔となってふつふつと燃え上がるのを感じながら、頼政は笑みをこぼす。
「父上?」
「いや、なんでもない、気にするな。……それより、叡山の様子はどうなっている」
「依然として不明瞭なままです。確かに平家を疎んじる声はあるのですが、とても北嶺は一枚岩とは思えぬ様子。一部がこちらに呼応して動いてくれれば御の字といったところでしょうか」
「いまの天台座主は清盛の受戒をした明雲だ。鹿ケ谷の一件で叡山と院との関係が決裂した以上、清盛は延暦寺の調略を進めていると見てまず間違いないだろうな。南都の寺もみやこまで駆け付けるには時間がかかりすぎる。やはり、頼みにできるのは園城寺か」
 園城寺は頼政の娘が寄進をするなど摂津源氏とも関係の深い寺であり、そこでの籠城であればいくらかの分が生まれると、頼政は考えていた。東の山道を越えればみやこの眼と鼻の先という利点もある。
 だが、それでも万全とは程遠い。
「かりに、二百や三百の援軍を得たとして、どこまで役に立ちましょうか。今の平家は寺社に弓引くことに躊躇いなど覚えませぬ」
「同感だ」
 なにしろ一門の当主清盛からして、強訴に持ち出した神輿に白矢を引いて打ちつけた逸話をもつ、神仏をも畏れぬ度量の持ち主である。その後も彼は自身が神罰にもあたらずぴんぴんしていることを引き合いに出して、強訴に使われる神などにせもの、形だけと言ってのけた。
「小松殿が御存命であれば、いま少し違った方策もとれたことと思います」
「言うな。……惜しい命であった」
 仏門に篤く帰依し、温和で知られる小松殿、平重盛が没したのは昨年のことだ。晩年の彼は父清盛入道との方針の違いから心身ともに疲れ果て、官位を返上し職を辞していた。この国を治めてなお一段高い視野から、海の向こうの大陸を見据えてさらなる栄華を求めた父清盛と、天下を治めた平家に相応しい調和と安寧を求めた息子重盛。両者の溝は深く、ついに最後まで埋まることはなかったという。
 仲綱は昔、衛府の蔵人であった時分に、重盛が帝や女房に細やかな心配りをしているのを何度も目撃していた。自分より十も若いというのに、けして荒ぶることも位を笠に着ることもなく、温和で優しき人柄に感銘を受けたと何度も述懐している。
「寝所に潜り込んだ大蛇を殺めることなく、騒ぎにならぬよう、そっと懐に入れて運び、私に逃がすように申された方です。小松殿が居られれば、平家一門は違った形を成していたかも知れませぬし、宮もこのような御不満を形にはなさらなかったのではとも思えるのです」
「……仲綱」
「申し訳ありません。繰り言です。……それよりも父上、合流の手はずですが――」
「失礼いたします!」
 仲綱が今後の予定について口にしかけた時だ。慌てた様子の郎党が一人、その場に駆け込んでくる。
「頼政様、団三郎さまがお見えになっております! その、今はお忙しいと断ったのですが、何を押してもお会いしたい、会えるまではここを動かぬと裏門に居座る始末でして、どうしたものかと……」
 よほど頑固に言い張っていると見え、郎党も困惑気味である。頼政は仲綱と顔を見合わせた。
 決起前の大事な時だ。たとえ親しき相手とはいえ、部外者を招くことは避けるべきではあるのだが――頼政には予感があった。
 漠然としたものだが、きっと、こうなるのであろうという、確かな予感が。
 予感、あるいは予兆。これはそういうものだろう。
 己の老いたことで、ただ若さに任せていた時分には見えずにいたものが見えるようになったのかもしれぬと、頼政は思う。
「良い、通せ」
「良いのですか」
「――俺に用事、というのだろう。今から会う。支度をしろ」
 驚く郎党に短く答え、頼政は静かに手を握り締めた。

 


◆ ◆ ◆

 


 人払いをし、頼政は団三郎と対峙する。邸の客間にやって来た団三郎は、頼政の前に深く頭を下げ、切り出した。
「頼政殿、夜分に突如のご無礼、どうかご容赦を」
「……構わぬよ。お主がその気になればどうとでも、会いに来るすべはあったのだろう」
「この時分、貴重な時間を割いてお会い下さったこと、感謝いたします。そして、これまで、長きに渡り頼政殿を謀っておりましたこと、お詫びいたします。話というのは――」
「良い。分かっておるよ、団三郎殿」
 切り出した団三郎を遮って、頼政は息を吐く。
 明瞭ではないにせよ、頼政は察していた。この団三郎なる娘が、まともな人界を生きるものではないことを。
「お主は、おそらく人ではない。人のように振舞い、人の世を生きるあやかしだ。……違うか」
「お気付きで御座いましたか」
「……疑ったのは最近だがな。なにしろ俺は身を持ってあのぬえを見知っている。いまさらこの世に他の化生が居たと知って驚くものかよ」
 思えば、団三郎の動向ははじめから不可解なものがあったのだ。そも、このような風体の女商人など、みやこでまともに生きていけるはずがない。それを可能としていたのは、彼女自身の妖怪としての能力であったのだ。
「そこまで見通されておったとは、儂もまだまだ精進が足らんですのう」
 口の端をもたげ、団三郎はやおら立ち上がったかと思うと、たんとその場で床を蹴った。宙で身を丸めくるんと一転すれば、どろんと辺りに白い煙が舞いあがる。白煙の中、姿を見せた娘の髪からはひとそろいの獣耳が跳ね、背中には彼女自身の身体ほどもあるふさふさの尻尾が飛び出していた。
 化狢の本性を露わにした団三郎は、改めて居住まいを正し頼政に向き直った。縞模様の大きな尾を身に沿わせるように丸め、顔を伏せるとともに左右の耳を大きく立てる。彼女なりの礼の立て方であろうか。
「改めて。源三位馬場頼政入道どの。この姿では初めてお目にかかります――儂は団三郎。四国狸界にて覇を立てる、伊予八百八狸総帥、狗神刑部の名代を務めております。佐渡の地に明るいゆえに佐渡の団三郎狢などと呼ぶ者もおりますな」
 むじなとは、佐渡での狸の呼び名だと団三郎は言う。狐狸は長じて人に化けると言うが、これほどまでに人の成りを見事に装い、商いまでするなどという話を、頼政は生まれてこの方聞いたこともなかった。
「このみやこの朝廷に近付いたのは鳥羽帝の御世のころになりますのう。みやこに巣くう狐どもに対抗するべく、狗神刑部様より源氏の一族に取り入れとの命が下り、貴方様を利用させていただきました」
「すると、お主は俺よりもずっと年上なのか」
「さあて、生まれた年の事など覚えておりませんので確かなことは申せませんが、儂がこの世に生を受けてもう百五、六十年にはなりましょうかの」
 団三郎は訥々と己の出自を語り出した。狸の本邦、四国にて狸の親より生まれたこと。幼くして佐渡に渡ったこと。長じて智恵を付け二足で立ち、月光を浴びて化術を修め、人に変じて海を渡り、このみやこへとやってきたこと。商人を装い、様々な手段で朝廷や武家に接触を試みていたこと。このように人の世に潜り込んだ狸達を、四国八百八狸総帥・狗神刑部は何匹も抱えているということ。
「では、みやこには俺の他にも化生と通じている者がおるのだな」
「詳しくは申せませぬが、そうですな。平家の小松内大臣、重盛殿には讃岐の狸の総大将、屋島太三郎が与しておりました。小松殿がお亡くなりになって、最近平家とは疎遠となっておりますがのう」
「かの御仁であれば、ありそうなことだな」
 仏道に帰依し、禽獣を無闇と殺すことを厭っていたという重盛の名に、頼政は一人納得した。
「狸の世というのも、熾烈なものであるのだな」
「まったく。お互い隙あらば化ける化かすが茶飯事ゆえに、始末に悪いですな」
「……それで得心がいった。団三郎よ、先日の内裏の霊狐を射た渡辺党の競というのも、お主が化けた姿であろう」
 彼女の耳がぴくんと跳ね上がる。意表を突かれたという彼女の顔に、頼政はようやくひと泡吹かせてやったと笑みを浮かべた。
「……見抜かれておりましたか」
「見くびってもらっては困る。老いたとはいえ摂津源氏の長、出仕をする二百ばかりの郎党の顔と名は、みな覚えて居るよ」
「これは、まこと……お見逸れいたしました。まさか気付かれることはなかろうとたかを括っておりました。……重ね重ねのご無礼、平にお許し下さいませ」
 団三郎は再び深く頭を下げる。昨今巷に溢れる礼儀を知らぬ余所者達よりも、よほど、人の心の機微に通じていると見える。
「かの狐は悪狐でございます。神山の精凝って形を為す九尾狐、その眷族にございました。お耳になさったことはおありでしょう、鳥羽院の御世に、水藻、玉藻前などと名乗る娘が、寵姫となったという話を」
「……うむ」
 宮中に潜む狐が院を誑かしているという風聞は、何度となく人々の間を流れていた。頼政の仕えた美福門院こそが、かの九尾の化狐その人であるなどと言う者までいたのである。
 まったく荒唐無稽な話で、頼政もあの藤原紅子に警告を受けていなければただの戯言と一笑に付していただろう。
「その玉藻前とやらは、古くは大陸の夏王朝、殷王朝を傾けた千年狐狸精、傾国の九尾であるなどと聞くな」
「っかかか! それは振るった話ですのう。まったく聞くだに可笑しい限り。……かの狐自身図々しくもそのように称しておりましたが、あれはまったくの出鱈目、紛い物でしてのう。本物とは数枚も劣る偽物じゃ。しかしまったく悔しいことに、生憎と、儂ら狸には手が出せませなんだ」
「何故だ」
「――今の陰陽寮の長がどなたか、ご存じか」
 思い返すまでもない。陰陽司を率いるはかの名門の安部泰明。隠された秘密、秘された真実をまるで見通すように指差し暴くという神懸った秘儀を見せたことから〝指神子〟と渾名され、名だかき安部晴明以来の傑物とされた大陰陽師である。
「かの晴明は、信太の森に住む霊狐葛の葉の子。ゆえにその血に連なる彼等は、狐にだけはまるで鼻が効かず、その魅了の術を跳ねのけることができぬのです。この国の霊護を預かる陰陽寮が、こぞって九尾の言葉を疑うことなく信じ込み、その手足となって動きましてのう。まったくもって歯痒い限りでした」
「そのようなことがあったのか……」
「挙句、稲荷明神の姿を借りて刀匠三条宗近に取り入り、小狐丸などという妖刀を打ってはばら撒く始末。あれは所持者に猜疑を起こし争乱の元となる太刀です。悪左府頼長どのや信西入道のもとにもこの太刀があったこと、ご存知ですかな」
「ふむ……」
 頼政はふと帝より拝領した太刀獅子王に思いを馳せた。あるいは、百獣の王たる獅子の名が、頼政を悪狐より守っていたのかもしれぬ。
「その九尾もやがて宮中を去りましたがの。あの霊狐はその名残のようなもの。分不相応にも後釜になり替わろうとしていたところを見つけましたので、儂が一化け披露した次第です」
「成程な」
 こうして説明されてみても、あまりに荒唐無稽、まったく眉唾な話であった。それは団三郎も理解しているようで、どうにも納得いかないと眉を寄せてみせる。
「随分と素直な事ですのう。お疑いになりませぬのか」
「その真偽をお主に問いただしてどれほどの意味がある。団三郎、お主が言う通りの化け狸であるなら、俺を謀る事など容易いはずだ。違うか」
「む」
 こう言われて団三郎、大きく眉を動かした。左右の耳もぴんと延びる。
「……それを含めてお主の望みを聞きたい。団三郎よ」
「もはや、隠し立てしても詮無きことですな。兵庫頭どののご事情、全ては窺い知ることはできませぬが、経緯は耳にしております。――差し出がましいかと存じますが、木ノ下……いえ、ぬえのこと、儂に任せて頂けませんか」
「……良いのか」
「あれを生みだしてしまったのには、儂にも一端の責があります。雅頼どのが誰に吹き込まれたかも調べず、魔祓いの双生矢竹などを軽々しく佐渡から持ち出してしまったのがそもそもの過ちでありました」
 静かに瞑目し、団三郎は吐息する。
「頼政殿がばけもの退治の芝居をした後、二条帝の御世に再び現れたぬえに、弓矢が届かなかったのを覚えておいでですか」
「ああ」
「あれは、頼政殿の弓が原因なのです。即ちこれは、因果の逆転とでも申すべきもの。
 ……多少、長くなりますゆえ、順を追ってご説明いたしましょうかのう。まず、妖怪は人の恐れ、それに伴う伝承によって強くもなり、弱くもなるものです。ある妖怪が恐ろしい怪力をもっているとされ、それが広く知られるようになれば、その妖怪は実際に恐ろしい怪力を身に付けてしまう。そのような事がありますのじゃ」
 団三郎、懐から一枚の紙を出した。彼女がそれを振るうと、紙はたちまち折り取られて一羽の鳥となる。そのまま彼女の術によってぱたぱたと動き出した鳥が、団三郎の手に留まる。
「恐れは、あやかしの力となるということか」
「妖怪でなくともそのようなことはありましょう。敵を前に、あいつは強い、自分はとても敵わぬと怯えていれば、手足は委縮し、心は萎え、実際には互角の相手でも十全に力を出すことは難しい。そして、妖怪の場合はこれがさらに極端となるわけですのう。
 あるところに怪力無双の武者がいるとしましょうかの。彼が妖怪に遭遇し、怪しきものへの恐れから存分に力も振るえず、手も足も出ずに殺されてしまった。その場合、その妖怪には『あの怪力の武者でも勝てなかった』『人智を超えた怪力を誇るばけものなのだ』という謂れが憑くのです。因果がひっくり返ってしまうのですな」
「むう……」
「そのような伝承、謂れのなかで、なおも妖怪に力比べを挑もうとする者がどれほど残るのであろうかということです。ついには人が皆、その妖怪の怪力を恐れてしまえば、もはや誰もその妖怪の剛力には勝てぬものとなります。命知らずの無謀な力自慢が現れたとしても、妖怪への恐怖に心折られた者達の恐れが、その妖怪の強さを――恐怖を、補強してしまうのです。古くより生き残って来た妖怪というのは、そうしたいくつもの伝承や噂を己の爪牙や鎧にしております。だから強く、それゆえ恐れられるわけでしてのう」
「それを討つには、妖怪への恐れを知らぬものでなければならぬという訳か」
 それを人の世では、英雄と呼ぶのだ。人智を超え、破天荒の限りを尽くして、想像を超えた偉業を果たす。そんな、人の枠をはみ出したもの達だ。
 団三郎は大きく頷いた。
「さらに申しましょう。妖怪の成り立ち、格のひとつに、いかなる名物で討たれたかというのがあります。強く不死身の妖怪であれば、それを討てる剣、射た弓は素晴らしい銘物でありましょう。――いや、名剣でなければならねばならぬのですな。でなければ、その妖怪がいかに強大だったかがうまく説明できぬことになってしまう。錆びた小刀で大江山の鬼が死んでしまっては文字通り、格好がつかぬでしょう」
 頼政はふと、早太のことを思い出した。彼も己の短刀に、骨食などと名を付けていた。怪物鵺を討った真の名剣であるのだと、事あるごとに見せびらかしては自慢していた。あれも同じ心の働きであろう。
「これもまた因果を遡るものなのです。名の知られた剣で討たれたのであれば、その妖怪は、それだけ恐ろしく強い者であったということになる。ならざるを得ない。そうでなくては釣り合いがとれぬのです。そこいらの羽虫を潰すのに、三種の神器を用いて良いわけがない。
 近衛帝のばけもの退治の折、帝を苦しめた正体不明のあやかしは、古今無双の弓の使い手、辟邪の武、摂津源氏頼政どのの弓にて、佐渡の矢島に伝わる双生武竹の矢で退治された。その噂が広く恐れられ広まることで、ぬえはそういった妖怪と成ってしまったのです。退治するためには魔祓いの双生武竹の矢が必要だったことになり、逆に他の方法では退治できなくなってしまった。
 故にあの娘は、ばけものと成った。成らねばならなかったのです。帝を脅かし、みやこの夜を騒がす正体不明の妖怪たりえなければならなかったのです。――あの日、あの夜。あの矢をもって射抜くことがなければ、あの娘の怨念も妖怪になり果てることは無かったでしょう」
 長らく話し終えた団三郎は、大きく息を吐いた。
 まこと。それが真実であるのならば。
 鵺とは皆の恐れが、凝って生まれたものなのであろう。人々が恐れ、心の底に蓋をした、正体不明の恐怖への畏れ。それが形をとったのが、あのぬえなのだ。
(そこに、俺の畏れもあったのか)
 頼政は思う。帝の前で謀を巡らすことへの逡巡、躊躇い、恐れ。真実を暴かれ、己の地位を失うことへの怖れ。己の心が咎める思いもまた、ぬえを生んだ畏れの一つであったのかもしれぬ。宮中に渦巻く無数の畏れ、それらが入り混じり、正体を掴めぬものへと変じた。
 近年起きたいくつもの禍を、大魔縁と化した崇徳院の怨霊の仕業であるとしたように。
 もはや人は天地自然のあやかしに頼らずとも、人を脅かす魔を生むのだ。
 やり切れぬ思いと共に、頼政はゆっくりと額を擦る。
「それが、お主がぬえに肩入れする理由か」
「実のところ、四国ですらここ百年余りで、人に化けられる狸たちも大きく数を減らしましてのう。闇に潜むものに対する人の恐れというものは、時を経るにつれ減るばかりです。頼政殿のおっしゃる通り、この世からあやかしというものが消え去るのはそう遠い事ではないのかもしれませんな」
 だからこそです、と団三郎は言う。
「――単に寂しいだけなのかもしれませぬな。新たな妖怪を産んでしまったこと。その親として責を取らねばならぬと……まあ、そういう理屈をつけることもできましょうが。
 これは、儂の望みでもあるのです。万事うまくやり遂げましょう。団三郎の名にかけて、今度こそぬえを救ってみせます。どうか儂を信じて、お任せいただけませぬか、頼政殿」
 深々と頭を下げる団三郎に。
 頼政は、礼を尽くして頭を下げた。
「こちらこそだ。よろしくお願いする、団三郎殿」

 

 

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