六 ふたつの乱

 

 久寿二年(一一五五年)。頼政の『鵺退治』以来、しばらくは快方に向かっていた近衛帝の病状が再び悪化したのはこの年の七月のことであった。たとえ治天の君とて人の生死まで自由にすることは叶わぬ。生来病弱であった帝は、激動の宮中でわずか十七歳の生涯を終え、崩御されたのである。
 お若くして亡くなられた帝にはお子がなく、早急に次の帝を決めねばならぬ事となった。
 鳥羽院には崇徳の弟、雅仁親王がいたが、皇位継承とは無縁の遊興にふける毎日であった。ことに昨今の流行歌である今様をお好みになり、朝な夕なと歌い続け、喉を潰すことも一度ではなかった。鳥羽院もこのご様子をお嘆きになり、即位の器ではないとまでお零しになったという。
 そこで後継として名前の挙がったのは雅仁親王のお子である守仁親王、近衛帝の姉であった暲子内親王、また崇徳院のお子である重仁親王らであった。しかし守仁親王はまだ幼少であり、父の雅仁親王を飛び越えての即位など例がない。暲子内親王とて女帝は称徳帝以来四百年に渡って例がなく、重仁親王に至っては、崇徳院の院政を阻止せんとする美福門院らの思惑によって慎重意見が続発し、いずれも決め手に欠けていた。
 そして、王者議定の結論は思わぬものとなる。雅仁親王のお子である守仁親王を即位させることを前提に、その中継ぎとして雅仁親王が後白河帝として即位されたのである。
 この暴挙とも言える新帝擁立は、我が子を帝にという崇徳院のお心をひどく苦しめ、美福門院らとの関係をさらに悪化させるものであった。新帝選定の議定に参加したのは関白藤原忠通、源雅定、三条公教ら、いずれも美福門院と関係の深い公卿たちであり、そこにどのような思惑が働いていたのかは考えるまでもない。また、守仁親王は生まれてすぐに生母を亡くし、美福門院の元でまるで実の子のように育てられていた。近衛帝を喪った彼女の画策がどのようなものであったか、窺い知ることはたやすい。
 いかな寵愛深き美福門院の行いとはいえ、鳥羽院がこの女院の横暴を看過なされたことを訝しむ声もあった。鳥羽院がなぜここまで、我が子であるはずの崇徳院を疎まれたのか――その真実は崇徳院のお血筋にあるとされるが、それはけして表沙汰にはならぬ秘密であり、事情を詳しく知るものは皆口を閉ざすばかりであった。
 こうして院でありながら政より弾き出されてしまった崇徳院のお心とはいかばかりであったろうか。
 皇に連なる血筋にありながらこの国の政に関わることもできず、ただ父鳥羽院のお指図のままに皇統より追い出されて日陰へと追いやられる。そんな新院のお心を案じ、その力になろうと奮起したのがかの宇治左大臣、〝悪左府〟藤原頼長であった。彼もまた藤原摂関家の長の地位を巡り、兄である藤原忠通と激しく争っていたのである。
 帝と新院、藤原摂関家の内紛、これに院の寵愛する美福門院、高陽院らの女院たちを交え、宮中の混沌は誰にもその全容を窺い知れぬものとなっていた。複雑怪奇なる権力抗争はいや混迷を増し、波が重なりその高さ荒さを増すかのように、みやこを覆い尽くしていったのである。
 事の発端は、長く病に伏され、ついには若くして御隠れになった近衛帝について呪詛の嫌疑が持ち上がったことであった。秋を過ぎたころからこの呪詛を行ったのが誰あろう、悪左府頼長であるという噂がまことしやかに語られはじめたのである。
 むろんこれが真実かどうかは定かではない。しかし、儒学や律令を重んじ、論理を優先して慣例を無視する頼長の政治手法は、院近臣の中級・下級貴族の反発を招き孤立していた。和漢の書に通じた博識と優れた政務能力で辣腕を振るった頼長は、同時に各所で恨みをかっていた。この噂が流れたのがちょうど妻の喪に服していた時期ということもあり、頼長は完全に宮中に戻る時期を逸してしまったのである。頼長を溺愛する父・藤原忠実も息子の復権のために奔走するが、それもかなわず頼長は事実上の失脚状態となった。
 頼りとしていた頼長を欠き、新院崇徳もたいそう落胆なされた。対立は緩み、このままみやこの中枢は鳥羽院のもと、美福門院や忠通らが治めるかに見えた。
 だが、開けて保元元年(一一五六年)、新帝後白河による新体制がまだ固まりきらぬ中、突如として鳥羽院が病にお倒れになったことで再び事態は急変する。ご高齢であったとはいえ健勝の鳥羽院が床に伏せる中、院の後ろ盾を得て権勢をほしいままとしていた忠通、美福門院らはこれに激しく動揺した。美福門院らのいまの立場は全て鳥羽院あってのものである。それを失っては公卿らの反発は必至であり、それはまた崇徳院、頼長らにとっては千載一遇の逆転の機会だった。
 この時、病床にある鳥羽院は、新帝と崇徳院の間に起きる争いを見越して、五人の有力な北面武士たちの名を上げ、彼らを含む十名に祭文(誓約書)を書かせ、美福門院への協力を約束させていた。この中で、兵庫頭源頼政の名は、下野守源義朝、足利蔵人判官源義康に続いて三番目に見ることができる。
 しかし当の頼政の心中はまったく複雑なものであった。院がその力を頼みにしていることは光栄の極みであるが、同時にこのみやこを戦場に変え、帝と院が争うなど、前代未聞である。
「……できれば、なにも起きねばよいが」
 そう思う頼政の思惑とは正反対に、新帝と崇徳院を支持するそれぞれの勢力の対立は深まるばかりであった。
 その中でも一際その動静に注目を浴びたのが、誰あろう安芸守平清盛である。この時清盛は三十九歳。すでに武家としては破格の正四位に任じられ、伊勢平氏一門を率いる棟梁であった。
 清盛は後白河帝、関白忠通とも関係が深い一方で、彼の義母である池禅尼は崇徳院の乳母であり、また父忠盛が重仁親王の後見であった頃から、いずれの勢力からも陣営に加わるよう声を掛けられていたのである。
 この時期既に、清盛は北面武士の中でも筆頭に数えられる勢力に成長していた。彼の動向いかんで伊勢平氏一門が動き、さらには形勢を見てそちらに寝返る武士たちもいるだろう。
 かつての瀬戸内で、荒くれの海賊に混じって海をかけていた伊勢平太が、この複雑怪奇な戦の趨勢を決める立場となったのである。

 


◆ ◆ ◆

 


 後に保元の乱と呼ばれることになるこの戦いは、後から振り返ってみれば始まる前に趨勢の決していた戦いであった。
 保元元年七月五日。崇徳院と頼長が同心し、国を傾けようとしているという風聞が広まり、俄かに洛内は色めきたった。直ちに後白河帝の勅命によって誓約書を出していた足利義康らが招集され、東三条の頼長の邸宅が没収される。
 住居すら失って追いつめられた頼長はついに決起を決意した。彼はかねてより協力を呼び掛けていた河内源氏棟梁、源為義らを率いて起死回生の一手に出たのである。
 時を同じくして崇徳院も少数の側近と共に宮中を脱し、七月九日にはみやこの東、白河御所へと御座を移された。
 明けて七月十日にはここに宇治から上洛した頼長も合流し、鴨川を挟んで両者は対峙。院と帝の決戦は避けられぬものとなったのである。
 この日の夜、世が乱れる事を告げるかのように空に箒星が現れ、人々を恐れさせた。天もまた、国をふたつに割る争いを嘆いていたのかもしれぬ。
 崇徳院が軍事拠点としては脆弱な白河御所を本拠とされたのは、南にある平家の本拠、六波羅を牽制し、清盛の合流を促すためであったとされる。
 しかし、この時すでに清盛の姿は頼政らと共に御所、高松殿にあった。ここには他に足利義康、平信兼ほか、主だった武士たちが結集しており、彼らが動員した兵の数はあまりも凄まじく、軍、雲霞の如しと評されるほどであった。
 清盛を後白河陣営に引き入れたのは、またも美福門院らの画策によるものであった。鳥羽院が祭文を書かせた十名の中に肝心の清盛の名はなかったが、彼女はその巧みな政治手腕で清盛署名の祭文を作り上げ、彼の招致に成功したのである。
 かくして、後白河陣営には若き河内源氏と伊勢平氏の嫡流が轡を並べ揃うこととなった。
 赤地水干小袴の義朝が坂東の精鋭二〇〇騎余を率いれば、清盛は紫皮の京甲冑に紺地水干小袴と対象的な出で立ちで、陣営の中で最多の伊勢平氏三〇〇騎を引き連れていた。
 対する崇徳陣営には、陸奥四朗源為義、その子鎮西八郎為朝らの兄弟、平忠正らの名前こそあれど、兵は圧倒的な寡兵。頼みにしていた六波羅からの援軍も公卿らの応援もなく、日和見の貴族達は皆、後白河陣営に加わっていた。
 戦局は圧倒的に崇徳院の不利だったのである。元々、呪詛の嫌疑や帝位簒奪の風聞に追い詰められ、後がなくなってからの決起だったのが災いしていた。
 白河御所において、為朝は崇徳院も同席する軍議の場で、兄義朝や清盛の力を正しく評価し、不利な状況を覆すために強く夜襲を勧めた。が、悪左府頼長はそのような卑劣な振る舞い、治天の君に相応しからずと跳ね付け、頑として許さなかったという。
 頼長にしてみれば国の趨勢を決める皇位の正当性を問う戦いである。正しき作法の元で堂々と行われるのが当然であり、自分達が嫌疑をかけられているならば、なおのことそれを順守せねばならぬとの思いによるものであっただろう。為朝が鎮西で夷敵を討伐するようなつもりで発言したことが気に入らなかったともとれる。
 また、白河御所には明朝、興福寺よりの援軍として僧兵一〇〇〇が駆け付ける手筈となっており、寡兵で大軍に挑む愚を避けんとした頼長の判断は確かに彼らしい合理的なものであった。
 しかし今回ばかりは、論理と道理を重んじる頼長の性格が災いを招いた。
 時を同じくして、高松御所の後白河陣営でもまた義朝によって夜討ちが献策されていた。これまた同席していた関白・藤原忠通は野蛮な策とこれを嫌ったが、後白河帝の参謀を務めていた僧の信西はこれを「先んずれば人を制す」と認め、清盛・義朝による夜襲が決行されることとなったのである。
 激突が必至となった時点で、義朝、清盛という兵家に指揮を任せた後白河陣営に対し、最後まで頼長が指揮権を譲らなかった崇徳陣営に勝ち目はなかったのだ。
 十一日未明。清盛、義朝らの混成軍は大路を西へと急行。鴨川の大橋を渡り三手に分かれて白河御所を包囲した。
 頼政はこの夜襲には加わらず、後詰として渡辺党の郎党一〇〇騎余と共に高松御所の警護にあたっていた。この時点でもはや後白河陣営の優勢は確定したと言ってよく、一門に大きな被害を出さぬまま勝利を迎えることができるのは頼政にとって願ってもないことであったが、陣営の早太は太刀合わせとならなかったことが不満のようで、しきりに敵方が攻めてこぬかと不満を漏らした。
「……攻めてこられたら困るのだ」
「なぜです! あのような軟弱な輩、私一人で蹴散らしてみせます!」
 頼政の独白を聞きとがめたか、同輩たちが顔をしかめるのも構わず、早太は叫ぶ。
「あちらは寡兵だ。攻めてくるとなればまさに今、夜襲であろう。数を頼みに攻めれば勝てるこちらと違って、彼等は後がない。まさに命を賭し、死力を尽くして攻めてくるだろう。それを迎え撃てば、少なくない被害が出る」
「見くびらないでください、頼政様! 私はもっと強いです!」
「……ああ、お主はそうかもしれぬな。だが、お前が十人分の働きをしたとして、相手が百人であったらなんとする? 覚えておろう、かの陣営にはあの為朝がいるのだぞ」
「無論、百人分働けば良いのです! あのような田舎武者に負けはしません!」
「……そうか」
 言っても無駄かと、頼政は吐息した。あの鵺退治以来、早太は妙な自信をつけ、尊大に振舞うことが多くなっていた。会う者会う者に自分は帝を脅かしたばけものを突き殺したのだと自慢し、頼政の与えた短刀に『骨食』などと名を付けては勿体ぶって見せびらかしていた。その増長は、授、省らの郎党達も顔を覆わんほどであったという。
 ふんと鼻息荒く仁王立ちとなっては、敵陣より攻めてくる騎馬を求めて周りの迷惑顧みず薙刀を振り回す早太に呆れ返り、頼政は額をおさえる。
「……あやつは、一度負け戦を知らねばならぬな」
「父上、私から言って聞かせましょうか」
「言って聞くものではなかろう。それで済むならとうにそうしているさ」
 仲綱に答え、頼政は苦笑した。
 摂津渡辺党の猛者に囲まれながら、早太は戦のなんたるかを何も学んでいない。ただ猪のように敵陣に突っ込み、敵将首を打ち落とせば、それで勝敗が決すると思っている。将は多くの供に守られ、また名のある武士はいずれも練達のつわものばかりだ。少しばかり蛮勇をかさにきた若者など、すぐに殺される。
 早太とそう変わらぬ年齢でひとりみやこを離れ、一軍を率い、坂東を制圧して清盛と肩を並べるまでに成長した義朝の姿を思い、己一人で戦の趨勢は変わらぬということをはやく早太に教えねばならないと、頼政はそう思うのだった。
 さて。夜襲によって戦の趨勢ははやばやと決していた。押し寄せる源氏平家嫡流の連合軍に、ただでさえ寡兵の上、ろくな備えのなかった白河御所は防戦一方となるまで押し込まれてしまったのだ。
 そも、この争いは治天の君を巡る争いである。
 この国が、帝の威光にて統治されているのであれば、それに弓引く者は全てが逆賊。そもそも崇徳院方に大義などなかったのだ。
 それでも豪傑為朝はその剛弓をもって奮戦した。夜討ちの策を却下されてなお、彼は兄義朝ならば必ず同じ策を取るであろうことを見抜いていたのだ。白河御所の西門に陣取った彼は、五人張りの剛弓を嵐のように放って攻め寄せる清盛・義朝混成軍を食い止めたのである。
 この乱最大の激戦区となった西門では、戦闘終了までに名だたる武士の多くが、為朝の放つ剛弓に蹴散らされた。また、彼の引き連れた鎮西の猛者二十八騎は、そのわずかな人数からは測り知れぬほどの活躍をしたのである。
 鏃が七寸五分という、為朝の矢の凄まじきことは想像を絶していた。
 西門攻略に名乗りを上げた清盛配下の伊藤景綱は、その息子である忠清・忠直兄弟をたった一矢で失った。為朝の矢は忠清の身体を鎧ごと貫通し、さらに忠直の腕を引き千切ってその身体を吹き飛ばしたという。
 猛勇と聞こえる伊賀国の山田小三郎伊行なる武士が混戦に紛れて為朝を射んとした時も、為朝はその矢が放たれるのを悠々と見送ってからその矢を撃ち落とし、返す矢で伊行を馬の鞍ごと射通して絶命させた。
 為朝の奮戦は凄まじく、ついには攻め手の清盛ですら撤退を余儀なくされる。敵を前に背を向けるなど平家の恥だと憤り、清盛の息子、重盛が果敢に為朝に挑まんとしたが、清盛はこれを叱咤し、戦の目的を見失うなと叱りつけた。戦場にあってなお実利を見失わぬ清盛の冷静さ、大局を俯瞰して見据える視点の恐るべきことは限りない。
 変わって西門の攻め手となったのは義朝であった。彼は腹心の鎌田正清と共に手勢一〇〇余騎を向かわせるが、為朝の矢にたちまち二十余騎が射殺され、正清自身も門より打って出た為朝に蹴散らされてしまう。
 ついに義朝の本隊と対峙することとなった為朝は、頼みの配下二十八騎を率いてそのまま白兵戦へとなだれ込んだ。奇しくも坂東と鎮西、場所は違えども父より遠ざけられた兄弟が、一歩も譲らず殺し合う、源氏の因果を感じさせる一戦であった。
 わずかな時間で両者は併せて一五〇騎以上の死者を出し、そのおびただしい血が西門を染め上げた。深巣七郎清国、大庭平太景義といった名だたる武者がさらに為朝の弓に射られ、重傷を負ったという。
 鎮西八郎為朝。まさに源氏の志を体現したかのような武者であった。固く閉じられた門扉をぶち抜いて吹き飛ばすその弓矢は、雷霆の如く凄まじく、彼に見えた兵たちはみな、今もその恐ろしさを夢に見ると聞く。
 夜が白み始める頃、義朝もついに為朝の守る西門から撤退。犠牲の大きい為朝側も、これを追うことはしなかった。
 夜戦を仕掛けることこそ成功したものの、上皇方の奮戦に攻めあぐねていた義朝は、ここで新院側に与する興福寺よりの援軍一〇〇〇の情報を掴み、敵陣が加勢を得る前に雌雄を決すべく、白河御所への火攻めを立案する。
 洛内での火攻めなど前代未聞であり、白河御所のすぐ近くには法成寺もある。仏閣に火を駆けるなど、およそ人のすることではないとされていたが――許可のための伝令を受けた高松御所の信西は、帝の意向さえあれば寺などすぐに建てられると、およそ僧籍にあるものとは思えぬ言葉で、義朝に許可を与えたのである。
 さらに信西は頼政らの兵も戦場へと投入するよう命じ、一気に決着を図った。
 かくして義朝らの手によって白河御所は燃え上がり、上皇方は総崩れとなった。頼政が渡辺党を率いて白河御所に駆け付けた頃には、折からの西風も手伝って既に御所は火の海であった。
 院と今上帝が治天の君を巡って争うという戦は、終わってみればわずか一夜で決着を見たのであった。
「なんと呆気ないものでありますな。まったく骨のない連中ばかりだ!」
「…………そうだな」
 燃え落ちる御所を前に、早太はしきりに腕を掴んで悔しがった。功を立てられずに戦が終わったことが我慢ならぬのであろう。新院と帝、双方の走狗として命を落とした者達を前に、頼政はただ、言葉少なに頷くばかりであった。

 


◆ ◆ ◆

 


 さて、乱が終結すればその後始末が急務である。幸いにして帝のおはす内裏には被害は出なかったものの、火に巻かれた白河御所の再建や逃亡者の捕縛など、すべきことは山のようにあった。
 まずは論功行賞と逃亡した残党の捕縛である。忠通は頼長に奪われていた藤氏長者の地位を取り戻すことを認めた宣旨を受け、戦功のあった武士たちには恩賞が与えられた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭に補任され、また足利義康と併せて内昇殿を認められている。
 一方、敗れた崇徳院は一時その身をくらましていたが、十三日になって実弟の覚性入道親王の居られる仁和寺に出頭する。この上は仏門に入り俗世を捨てて乱の責を負う御覚悟であったという。
 これによって上皇方の貴族や武士たちも次々に出頭することとなった。そんな中首謀者の一人悪左府頼長は頸に流れ矢を受ける重傷を負いながらも逃亡を続け、大和にまで逃げのびて老齢の父・忠実に面会を請う。が、忠実はこれを拒絶。頼長はそのまま失意のうちに命を落とす。乱の終結より三日が過ぎた十四日のことであった。
 これらの戦後処理の中で一気に台頭してきたのが、後白河帝の側近であった僧の信西である。俗名を藤原通憲といい、元は宮中にあって儒学を治める家系であったこの男、かつては悪左府頼長もその学識を認める男であった。しかし家格によって世襲となった大学寮の役職は彼を受け入れず、信西は満足な出世を望む事もできず失意のままに出家を志したのである。
 だがこの信西、出家してなお心は俗世にあると言ってはばからず、同じ仏門にあることを利用して鳥羽院へと近付いたのである。その試みは見事成功し、彼はその学識を存分に振るった。院の元で確かな影響力を発揮し、凋落する摂関家や北面武士たちを意のままにし、美福門院や藤原氏中御門流とも蜜月の関係を築きあげたのである。
 そも、近衛帝崩御の後、守仁親王の即位を前提に後白河帝の擁立を決めるという奇策を成すため美福門院と共に暗躍していたのはこの信西であった。先に述べたように乱の最中も義朝ら北面武士の献策を聞きいれ、戦の正道にもとる夜襲や寺院を巻き込みかねない火攻めという非常手段すら了承して、騒乱を早期の終結に導いた。これにより、新帝後白河からも信西への信頼はさらに篤いものとなり、彼の権勢はなお高まっていったのである。
 その帝の信頼をもって、信西が敗れた崇徳陣営に下した処断は、仏門にある者の言葉とはとても思えぬ苛烈で暴虐なものであった。
 まず、崇徳院は讃岐へと配流と決められた。帝の地位にあったお方が配流されるというのは実に四百年ぶりの重い処罰であった。
 さらには上皇側に加担した武士たちに対し、薬子の乱三百年以上以来行われていなかった死刑を復活させ、死罪をもって此度の大乱を起こした罪を罰することとしたのである。
 しかもこの処刑は同じ血を分けた親兄弟の手によって成されるべしという、まことに非道なものであった。
 このため父兄弟と決別し後白河帝の元に参陣した義朝は、自らの手で父為義、そして血を分けた兄弟を処刑するという屈辱を強いられた。処刑の場にあっても為義らは義朝を恨みはしなかったというが――嫡流を受け継ぐその手で家族を斬った義朝の胸中はいかなるものであったろうか。
 いかな義朝とて、父や弟たちとこんな形での離別することは想像もしていなかっただろう。為義と義朝の対立は確かに深まっていた。それぞれが己の理想を託し、みやこで後ろ盾とした勢力が異なれば、戦場で相まみえることは自ずと心に決めねばならぬことだ。
 それでも、彼等は心底お互いを憎んでいたのではなかったはずだ。互いを鏖殺しようなど考えてすらいなかったはずだ。だからこそ、義朝はこの戦にて河内源氏が滅びぬよう、慎重に事を構えて戦に臨んだ。
 雌雄を決し、命を落とすのが戦場であれば、最期にその武勇を示し、親子兄弟で刺し違えてもその名誉を保つ事が出来ただろう。
 だが負けを認め投降した者を捕えて首を落とすなどというあさましき所業に、どこに武門の名誉が残るのか。
 かつて彼に諭した言葉が頼政の胸中に蘇る。義に殉じ、戦って敗れた父達を断腸の思いで斬ったのであろう義朝の苦悩は、想像も及び付かない。
 そしてまた、もう一人の河内源氏の息子――為朝だ。
 捕えられた為義の息子の中で、為朝だけは死にゆく父の嘆願もあって命を永らえることとなった。とはいえ二度と弓を握れぬように腕の腱を切られ、伊豆――それも遥か海を隔てた大島への配流である。もはや二度と赦されることはないと考えて良かった。
 恐らくもう会うことはないだろうと思いながらも、頼政は、かなうならばもう一度彼に見え、今度こそ鵺退治の真実を告げてやりたいという心を抑えきれずにいた。
 源氏の英雄の凋落を悔いる無念ゆえではない。それは、この秘密を共有することの出来ぬ苦しさを、少しでも和らげたいという、頼政の心の弱さである。
(何のことはない。俺は、自分が楽になりたいだけだ)
 弱音を押し殺し、頼政は勤めに邁進した。乱の中では目立った勲功こそなかったものの、美福門院が頼みにする武士として、みやこにほど近い摂津国に基盤をもつ頼政の一門は重宝されていた。また頼政自身の歌才もあって、彼の名はさらに高まっていったのである。

 


◆ ◆ ◆

 


 こうして世を揺るがした院と帝が争う大乱は終わりを迎えたが――乱の後に大きく明暗を分けた二人がいた。
 誰あろう、源平それぞれの嫡流、平清盛と源義朝である。乱を収めた勲功によって新たな官位を得たとはいえ、伊勢平氏きっての名門である清盛と、凋落の最中にあった河内源氏の義朝にははじめから大きな差があった。義朝も乱以後はその功績を評価されていたとはいえ、かたや正五位下、下野守・左馬頭兼任。かたや正四位下にして播磨守、さらには大宰大弐。
 瀬戸内の制海権を得た清盛が、貿易や海賊捕縛によって莫大な利益を挙げたのに対し、義朝の得た地位はささやかなものでしかなかった。
 この頃から、義朝は昏い光を目に宿し、どこか自棄になる言動が見え始める。嫡男の頼朝を、後白河帝の稚児として差し出し、形振り構わず出世を望むようになったこともその一つであろう。
 後より振り返ってみれば、彼の変貌はこの頃から始まっていたのだ。
 その要因はいかなるものであろう。保元の乱の戦後処理が、義朝の胸中に深い憎しみの炎を燻らせていたのかもしれない。清盛も叔父の忠正の処刑を行っていたが、親子兄弟を皆その手で殺すこととなった義朝とは比べるべくもないだろう。
 あるいは、日々躍進を遂げる清盛以下平氏一門の繁栄が、彼の心に暗い嫉妬の影を落としたのか。いずれにせよ、真相は神仏ならぬ頼政には解ろうはずもない。
(――何事も起きねば良いが)
 頼政の願い空しく、保元の乱より数年と経たぬうちに再び宮中には不穏な気配が立ち込めていた。帝の元で辣腕を振るう信西への不満である。
 もともと、かの頼長が認める学才の持ち主だ。信西もまた博学と弁舌に長け、合議の場でも幾度となく相手の意見の矛盾を突き、理路整然と攻め立てた。
 苛烈ながらもその英断を好むものも少なからずいた頼長と違っていたのは、信西の弁舌がひどく執拗で、容赦のないものであったことだ。あまりに優秀すぎて世に余ると評されるほどの優れた才をもって、相手に反論を許さず、微に入り細に渡って誤りをあげつらい、ひたすらに己の意見の正しさを示すのである。これは帝の面前であってもお構いなしであった。
 相手が音を上げ、間違いを認めて許しを請うても、信西はまったく引く様子もなく、徹底的に論戦をもってやりこめた。この偏屈なまでの『正しさ』は、かつて彼が儒学の道より締め出されたことへの歪んだ執着心ゆえのものであったろうか。
 ともあれ、この様子で信西に対する不満が募らぬわけがない。まるで己が国の中心のごとき振る舞いをする彼に、多くの者が反発を抱いたのである。
 乱より二年が過ぎた保元三年(一一五八年)には、美福門院との密談によって後白河帝が息子、重仁親王に譲位して上皇となられ、親王は二条帝として即位する。
 これは鳥羽院存命の頃から決まっていた路線とは言え、当初よりも時期を早めてのことであり、『仏と仏の評定』などと揶揄された。仏門にあるものが王法を飛び越えて帝を決めることへの痛烈な皮肉である。
 そしてまた信西の専横に、徐々に後白河院もそのお心を彼から遠ざけていった。代わって院が頼みとされたのは、凋落から息を吹き返した藤原摂関家の寵児、藤原信頼である。
 同時に念願であった二条帝の即位が実現したことで、美福門院も用済みとなった信西から距離を取り始めていった。彼女の望みは我が子同然に育てた二条帝自らによる親政であったのだ。
 こうして信西が院、門院、帝のいずれからも反発を受けていることを察した信頼は、後白河院の寵愛を頼みに暗躍を始めた。
 平治元年(一一六〇年)冬。信西排除の急先鋒となった信頼は、各派の協力を取り付けて決起したのである。その陣営には河内源氏の源義朝、また頼政の姿があった。
 信頼は武士の力に着目し、坂東にある知行国を通じて彼等を援助し、義朝を自らの子飼いとすることに成功していた。頼政もまた、二条帝の親政をもくろむ美福門院によってこの場に動員されていたのである。
 決起は熊野三山への参詣のためにみやこを離れた清盛の留守を狙って行われた。信西、信頼双方と良好な関係を築き、どこかの勢力に偏ることなくみやこにおける最大勢力となった清盛は、いまや誰にとっても相手取れぬほどの強大な存在であったのである。
 反信西によって結託した院政派、二条帝親政派は、清盛の不在で軍事的に空白となった院御所の三条御所を襲撃。後白河院の身柄を確保すると院御所に火を放った。奇しくも、信西はかつて自分が許可をした火攻めによって御所を追われることとなったのだ。
 信西はからくも逃げ出して向かった先の山城国で、部下に命じて掘らせた穴の中に己を埋めさせ、捜索の手を逃れようとした。しかし事はすぐに露見し、その身体は地中より掘り出されて首を落とされたのである。仏門のまま俗世を恣にした男の、あまりにもあっけない最期であった。
 だが、話はここで終わりはしなかった。信西憎しで挙兵こそしたものの、実際に標的となる彼の排除に成功したところで、各派の足並みは乱れに乱れたのである。そもそも二条帝親政派、後白河院政派、各々の政治路線はまったく違う方向を向いており、求める着地点は別なのだ。同じ反信西を掲げて兵を起こしたは良いものの、自らが政権の中枢に返り咲くことしか考えのなかった信頼、自らが政を行うことを望む後白河院、二条帝の親政を望む美福門院らの派閥との間に亀裂が生じてしまったのである。
 しかしそんな状況はどこ吹く風と、信頼は決起の成功にすっかり気を良くし、みるみる増長を始めた。二条帝と後白河院、双方を内裏に軟禁状態として、信西に代わって自らが政治の中心になることを画策したのである。これは各派の激しい反発を招いた。
 さらには、清盛への対応が大きく彼等の命運を狂わせた。
 信西が処刑された翌朝、帝と院を掌中に収めた信頼は政権を掌握し、自分の信奉者たちだけを宮中に参内させて臨時の除目を行った。この除目で義朝は播磨守、義朝の嫡子である頼朝には右兵衛権佐などが任じられた。他の公卿や既に官位にある者たちを無視した一方的なものであったという。
 この専横によって、信頼は自らを近衛大将として悦に入っていた。居合わせた毒舌家で知られる藤原伊通は、この除目をして「人を多く殺した者に官位が与えられるなら、なぜ三条殿の井戸に官位をやらぬのか」と痛烈な皮肉を浴びせている。三条殿では御所を焼いた火から逃れようと、多くの人々が井戸に飛び込んで命を失っていたのである。
 およそ、この信頼という男には政権奪取後の視点がまるきり欠けていたと言っていい。院の寵愛にて成り上がった男は、治天の政治に必要な知識も経験もまったく持ち合わせていなかったのだ。すっかり戦も終わった気分でのんびりとしている信頼に、義朝はすみやかに清盛を討つための軍勢を差し向けるべきだと進言した。わずかな手勢のみを連れて熊野参詣の途中である清盛を討つ機会は、この時を除いてなかったのである。
 が、信頼はこれを一笑に付した。彼はもはや清盛の後ろ盾は失われたと断じ、平家おそるるに足らずと軽んじていたのである。信頼は御所の眼と鼻の先にある平家の本拠六波羅への対応もろくに取ることなく、暢気に除目を繰り返すばかりであった。
 軍事貴族、伊勢平氏の清盛をいまだ残るみやこの最大兵力、恐るべき不安要因と捉える義朝らに対し、姻戚関係や院の寵愛を絶対視する公卿の彼には、己の藤の姓やみかどの威光へ弓引く存在が理解できなかったのであろう。政治中枢を乗っ取れば、所詮武士でしかない清盛は服従するしかないと信じていたのかもしれない。
 決起から十日を過ぎてもなお動く様子もなく、御所に留まり、まるで自分が帝であるかのように朝議の上座に座って公卿の顰蹙を買う信頼に、坂東より駆けつけた義朝の長男〝鎌倉悪源太〟源義平はひどく憤ったという。
 そうこうしているうち、清盛は紀伊の豪族らの協力を得てみやこへと舞い戻る。熊野の山中ではわずか数十名に過ぎなかった清盛の手勢は、帰途の最中に現地の豪族、郎党らの合流によって三千騎もの数に膨れ上がっていた。義平は先の乱の教訓を挙げ、清盛らがみやこに入る前に待ち伏せ、夜襲をかけることを進言するが、信頼はこれもひきょう者の策略と退けてしまう。かくしてさしたる妨害もうけぬまま、清盛は悠々と六波羅に帰還。一門と合流を果たし、鴨川を挟んだ六波羅御殿には平氏の赤旗が翻った。
 この期に及んで、信頼は清盛の帰還を自分への服従が目的と捉えており、まもなく彼も宮中に参内して己に頭を下げ、恭順を示すであろうことを疑っていなかったという。
 が――二十五日深夜。内裏に幽閉されていた二条帝が清盛の手引きによって御所を脱出。六波羅に行幸されたことが明らかになり、宮中はにわかに騒然となった。
 さらには同時期に後白河法皇も姿をくらましていることが発覚し、信頼らの立場は一気に悪化した。帝の為という名目を失い、信頼らはただの賊軍と成り果てたのである。この時点で彼等の命運は決したと言って良かった。
 二十六日未明。しらじらとみやこに雪の積もる中、二条帝を迎え御所となった六波羅からは、清盛の嫡男・重盛と弟・頼盛が御所へと進撃。「反乱軍」を討伐に向かった。奇しくも、四年前の乱で共に戦った二人が相対することとなったのである。
 ここまで信頼に順じていた義朝も、ここにいたって彼への失望を露わにし、日本一の不覚人と罵るに至った。担ぐにはあまりにも疎かな神輿であっただろう。しかしそれも事が起きてからこそ述べることができるのであって、殊更に義朝の短慮を責めるには及ばないのかもしれぬ。
 この時点で、義朝が抱えていた兵力はごく僅かなものであった。もともと、この乱は信西を排除する目的で起こされたものだ。乱の当初は他の派閥も協力していたし、御所で院と帝を確保できる手勢さえあれば十分だったのである。
 義朝の軍勢はわずか、三千騎を率いて凱旋した清盛とまともに戦える状態ではなかった。しかしそれでも義朝らは奮戦する。なかでも〝鎌倉悪源太〟義平はその通称の如く暴れ回った。源氏八領の鎧、八龍をまとい、鎌倉より連れてきた猛者十七騎を連れて五〇〇の囲みを突破し、御所紫宸殿の右近橘左近桜の間を駆け巡って重盛と激しく応戦する。ついで彼は名刀抜丸を携えた頼盛を追い詰めたものの、結局は多勢に無勢。既に陣営の頭である信頼に求心力はなく、彼の元からは離反者が続出していた。味方のはずの武士たちが門の守りを放棄し、逃走するという事態にとなって信頼勢は総崩れとなる。
 清盛は内裏が戦場となるのを避けるため、信頼らを御所の外へ誘い出す計略を立てた。平氏の別働隊が御所に入り込み、御所に火を放ったと流言を流し、義朝らの動揺を誘ったのである。短期間のうちにみやこで乱が繰り返されたことで、誰もが火計の威力と有効さを思い知り、それを無意識に恐れていた。そこを衝いた実に巧みな策略であったと言える。まさか御所に火を放つなど有り得ないことなのだが、先例があるゆえに『まさか』と思わざるを得ない。清盛の鮮やかな計略であった。
 もはや味方もなく、攻め手は増える一方。ついに御所の守りを放棄した義朝らを嘲笑うかのように、御所の門は閉ざされた。これをもって義朝達は完全に孤立してしまったのである。
 戻る場所を失い、義朝らは決死の覚悟で平氏の本拠六波羅へと向かった。たとえ骸を晒そうとも、平氏に一当てせんとばかりである。逃げのびた手勢を六条河原で再結集させ、六波羅に攻撃を加えるつもりであった。
 その途中、彼等は六条河原を挟み、偵察に出ていた頼政らと対峙することとなった。
 共に白旗の徴を掲げ、源氏の軍勢どうしが蹄を並べて対峙する。西より進み出たのは義平である。彼は憤りも露わな力強い声で、おなじ源氏でありながら清盛に加勢することの不義理を詰った。
「そこなるは摂津源氏、兵庫頭源頼政殿とお見受けする! 我は鎌倉悪源太義平! 父義朝のため坂東よりこの地に参った! 元は同じ志に集った同じ源氏の一門! それがどうして、今、平氏の味方をして我等の前に立ちふさがる! 源兵庫頭と呼ばれながら、不利と見れば勝ちの尻馬に乗るとは、摂津源氏の名も地に落ちたものだな!」
 これには流石の渡辺党も怒りを見せる。参陣していた仲綱もまた、くやしげに顔を歪ませた。
「ふん、生意気な口を利くな、坂東の猪武者風情が!」
 早太もまた頼政の隣で悪罵を飛ばしていた。
 頼政の仕える美福門院は二条帝を擁立し、その親政を望む派閥である。乱の当初こそ、邪魔な信西排除にこそ協力したものの、その二条帝が既に六波羅へと行幸されているというのなら、もはや信頼に力を貸す道理はない。
 義平とてそれを知らぬわけでないだろう。そもそも彼も同じ源氏の一門、叔父にあたる木曽源氏の義賢を、坂東の戦いで討っているのだ。源氏同士の戦いを責める理由にはならない。
 その上でなお、彼は源氏の在り方を問うているのだろう。なるほどあれが河内源氏。坂東に生きる武者の姿か。義平の姿は為朝に重なって見え、頼政はひどく懐かしい思いに胸を揺さぶられる。
「……父上、どうしますか」
「何もするな。ここを固めておけば、彼等は六波羅の正面から、陣の最も分厚い場所を攻めねばならなくなる。死地に挑む者たちに、あたら手を出すのは余計な犠牲を招くだけだ。あちらもそれは理解している」
 そう固く申しつけつつも、頼政は愛用の重藤弓を手に一人、自らの率いる二○○騎の前へと進み出た。馬上に太刀「石切」を抜いてこちらを見つめる悪源太義平、そしてその後ろの義朝に向けて、弓を構える。
「これは異なことを言うものだ! 俺達は累代磨いた弓箭の武名を守るため、帝に付き奉る。これを裏切りと呼ばせるものか! こちらを糾弾するなら返して問おう、鎌倉悪源太義平、並びに上総御曹司義朝、そなたらはかの不覚人藤原信頼に同心し、この乱を起こして一体何を得たというのか!」
 朗々と響く頼政の声に、対岸の源氏の者たちがざわめいた。威嚇のためとはいえ、摂津源氏頼政の弓の腕前は広く皆の知るところである。ここに対戦の意志あらば、直ぐさま河内源氏の大将を射抜くと、頼政は宣言しているのだった。
 同じ源氏が六条河原の対岸を挟んで睨み合う。皆が固唾を飲んで見守る張り詰めた空気の中、先に動いたのは義平であった。馬を巡らせ、手勢を率いて一気に河原へと駆け下ろうとする。
 そこへ頼政は鋭く弓を放った。その手が霞むほどの立て続けの四射である。川面を裂く四筋の矢は、吸い込まれるように義平の身体へと走り――ばしっ、ばしっと激しい音を立てて砕ける。義平がその太刀をもって頼政の鏑矢を断ち斬ったのだ。しかし三矢を受けたもののそこまで、最後の一矢を兜の吹返しに受け、義平は河原の手前でたまらず手綱を引いた。前脚を挙げ馬がいななく。
 郎党と共に疾駆する馬上を狙い一矢も外さぬ神速の射技に対し、義平もまた、飛び来たる矢を見極めて打ち落とすという離れ業をやってのけた。互いに口上に述べた武威が嘘偽りではなく、まことのものであると示したことになる。
「――義平、戻れ」
 冷静な判断を下したのは義朝であった。一度は首を振ったものの、再度父に窘められ、悪源太は渋々河原へと引き上げてゆく。
 結局、頼政の言葉通り、六条河原を挟むしばしのにらみ合いの後、両者は結局本格的な衝突のないままお互いに兵を引いた。後の世にはこれを、悪源太の先走りによって摂津源氏と河内源氏の間に決定的な関係の亀裂を生じたものとする記録もあるが――それは真実ではない。
 そも、この遭遇は偵察中の頼政らに義朝達がたまたまかち合ったことによる偶発的なものであり、小規模な衝突こそあったものの本格的な戦闘はほぼ行われずに終わった。義朝らは六波羅への道を探していたのであり、頼政らも積極的に彼等を害するほどの理由を持たなかったためである。
 たがいに兵を引く中、馬を巡らせる義朝と、一瞬だけ頼政の視線が合う。
(……義朝殿。やはりあなたは、為義どののお子であるな)
 かつて坂東に向かい夢と希望に溢れていた少年の顔は、一門を率いる重責の中、武士として生きることを貫こうとした、深い苦悩が刻まれていた。
 思えば彼が坂東へ下ったあの日以来、義朝とは時間を取って話す事もできずにいた。
 彼の苦悩を想い、頼政は慙愧の念に堪えぬばかりだ。河内源氏の棟梁として、義朝の取った手段はけして最良のものではなかったろう。しかし彼が一門を、同朋を守るためにいかな心境にあったかを思うと、頼政はただいたずらに義朝を責めることはできぬように思われるのであった。
「……どうか死を急がんでくれ、義朝どの」
 彼が坂東にて多くの友とめぐり合い、かけがえのない出会いをして〝上総御曹司〟と呼ばれるようになったことを。源氏の嫡流として旗印に立ち、多くのものを守らねばならぬことを知ったことを。どうか己の誇りとし、貫いて欲しいと、頼政は思ってやまぬのであった。
 ……それが叶わぬものであろうことを、知りながらも。

◆ ◆ ◆

 数刻後。六条河原に集結した源氏は、一気に六波羅になだれ込んだ。死地に向かい、死に物狂いとなって攻め上る坂東武者に、これを迎え撃つは漆黒の鎧兜に身を固め、黒鹿毛の馬に跨り黒塗りの矢筒を背負った清盛である。
 二条帝を迎え、御所となった六波羅は激しい合戦場と化した。降り注ぐ矢は雨となり、雪は解け屋敷は血で赤く染まるほど。至る所で源平の兵士が打ち合い、斬り合い、泥の中に転げてなお組み合って。矢は折れ太刀は砕けて争いは続いた。悪源太義平も押し寄せる兵士の大軍に囲まれ、三方斬りまくって応戦したものの、ついには押し負け、退却を余儀なくされた。清盛に最後の突撃を加えんとした義朝も、忠臣正清の進言を得て逃げのびることとなったのである。
 義朝は坂東に向かい再起を図るが、その途中で嫡男頼朝とはぐれ、尾張に落ちのびた先で荘司の裏切りにあって、腹心正清と共に討たれた。義平はみやこに潜伏して清盛の命を狙っていたところを発見され、捕えられて処刑された。場所は奇しくも最後の決戦の地となった六条河原であった。
 乱の首謀者、信頼は乱の終結後に従者にまで裏切られて、身ぐるみを剥がれた情けない姿で出頭し、あさましくも命乞いをしたことで失笑を買いながら、処刑された。彼は処罰の瞬間までみっともなく泣き叫び、最後まで死を受け入れなかったという。義朝の投げつけた日本一の不覚人の言葉は正しかったのであろうか。
 二度の大乱は、みかどと公家の地位すらも大きく変えるものであり、院・関白・公卿らによるこの国の政のありかたをも問うものであったと言えるだろう。これは政争においても強い武力をもった陣営が勝つことを示し、武士の時代の萌芽を告げるものであった。
 ことに、保元・平治の乱における平家の躍進と、源氏の凋落は顕著である。
 河内源氏の一族はわずかの例外を除いて残らず討ち取られ、徹底してその罪を断じて処刑された。
 一方、平家は一門が次々と昇殿を果たし、隆盛を極めることとなった。ことに帝を救いだし救世の英雄となった清盛への評価は凄まじく、六月には正三位、八月には参議となって、前例なき公卿への任官を果たしたのである。かつては六位の位にて公家と隔絶されていた武士たちが、ついに政の中心へと進出した瞬間であった。
 院・貴族・寺社いずれにも属さない独自の勢力を保ち、自らの動向をもって政局を傾けることに成功した清盛の才覚は比類なきものであり、軍事貴族の到達点とも呼ぶべき傑物と呼部に相応しきものであったと言えよう。
 振り返ってみれば、二度の大乱において敗れ去った者たちの敗因は、すべて、今のみやこにおける清盛の権勢を見誤ったが故であった。伊勢平氏の棟梁の握る権勢は、いつからか誰が想像するものよりも遥かに大きくなっていた。清盛はそれを巧みに操り、みやこを掌握していったのである。
 そしてまた、河内源氏の凋落の中、頼政の摂津源氏は、この二度の大乱を見事乗り越え、みやこにおける唯一の源氏という確たる立場を築いていた。
 勝者が敗者となり、死者は死をもって処刑され、勝った味方同士が決別して争い合う、武力による紛争解決が現実のものとなった時代。この難局を切り抜けることができたのは、ひとえに頼政の政治的才覚、無駄な犠牲を好まぬ戦場での確かな状況判断、また歌壇における評価がもたらした貴族としての人脈があってこそ成せた業であったろう。
 だが、知己の若い者たちが次々と命を落とし、理想に、義に殉じていくなかで、気付けば頼政を知る多くの者たちが、政争の舞台より退場していった。とくに、己よりも若い者たちが次々とその命を散らしていく様は、老いらくの摂津源氏の長にどのように映ったであろうか。

 そして――平家全盛となったみやこの夜の空に、再びあの怪しき鳴き声が響き渡るのである。
 時に平治の乱より二年後となった二条帝の御世のことであった。

 

 

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