十五 恨弓「源三位頼政の弓」

 

 時はしばし前後する。
 治承三年(一一八〇年)五月十五日。六波羅が以仁王挙兵の端緒を掴み、打倒平家の企みが明るみに出たのはこの日であった。この年の春より以仁王の令旨なるものを持ってみやこを発った新宮十郎行家が、美濃、尾張、伊豆、木曽と各地を回り、源氏の血を引くものたちに平家打倒の命を下していたことが発覚したのだ。
 折しも二月、高倉帝の譲位がなされ、清盛の孫である言仁親王が安徳帝として即位してすぐのことであった。清盛は念願の帝の外戚となり、平家はまさに治天の地位にあった中での、驚天動地の出来事であった。
 世を揺るがす大乱再びの気配に平家は直ちに朝廷を動かし、ただちに以仁王の土佐配流が宣下された。同時に王の三条高倉の邸宅、また後見の八条院へも査察の手が入る。
 翌十六日には以仁王は皇籍を剥奪、源姓を下賜されて「源以光」とし、謀反人として訴追されたのである。
 ただちに王の捕縛に検非違使が派遣されたものの、この時すでに王は変装して宮中を脱し、頼政との打ち合わせの通り園城寺に到着されていた。
 事実を確かめるべく園城寺には平家の郎党が王への使者として差し向けられたが、園城寺の大衆はこれを拒絶。これを聞き、後白河院は痛快であると喜ばれたとも言う。
 寺社勢力が王に組していることを知った平家には緊張が走った。さらに地元の豪族たちが以仁王に呼応し、その勢力に与しているなどという風説も広まるに至って、反乱の機運が各地へと伝播することを危惧した平家は直ちに北峰たる比叡山延暦寺、南都たる興福寺へと使者を派遣する。
 この間、平家は何度となく園城寺に以仁王を追放するよう命じたが、大衆ばかりか寺を預かる僧綱までもがこれを拒否。なおも数日間の交渉を経て、ついに五月二十一日、平家は武力行使も辞さないことを決断する。翌々二十三日の出兵が決定され、反逆者鎮圧の部隊編成と、指揮官の選定が行われた。
 この軍議での決定において、園城寺攻略軍の編成には平宗盛を総大将とした平頼盛、教盛、重衡、維盛らの平家一門の名が並ぶ中、源頼政の名を見ることできる。ここからも、平家の頼政への信頼がいかに篤いものであったか、また頼政が以仁王との関係を厳重に隠匿し、慎重に、秘密裏かつ入念な準備を進めていたかを窺わせる。
 武力措置を前に宮中では以仁王に関係した人々の捕縛が相次ぎ、一度でも王に見参のかなった者たちはくまなく邸宅を捜索された。この取り調べの恐ろしき様子に、九条兼実は病死でもした方がまだましであると日記に書き残している。
 そしてこの五月二十一日深夜。頼政は新院高倉上皇の警護の任を終え邸宅へと戻ってきた兼綱、仲家らと合流、わずかな郎党達のみを引き連れて近衛河原の屋敷を発った。
 渡辺党の中でも長らく家に仕え、信頼のおける選りすぐりの猛者、授、省、唱らを連れて少人数ごとに分かれ、夜闇に紛れて馬を走らせる。一族郎党は皆頼政について行くことを願ったが、頼政は頑としてそれを禁じ、次男の頼兼、末子の広綱ら、また伊豆に残る仲綱の子有綱と彼らに従う郎党達は、それぞれの務めに残すこととした。
 頼政らは梨ノ木の邸宅に先行していた仲綱らと合流、その日のうちにみやこを抜け、空が白む前には園城寺へと辿りついたのである。
 開けて二十二日朝。源頼政以下、摂津源氏渡辺党の精鋭五○騎が王の元へ下ったという報せに、みやこは騒然となった。
 摂津源氏の源三位頼政、その息子仲綱らの平家への忠臣ぶりは広く知られていたからだ。平家全盛のみやこにあって、頼政が冷遇されながらも一心に勤め励み、同じ源氏である伊豆の頼朝の動向を逐一報告するなどして平家に尽くしていたことは周知である。
 清盛に媚びて三位を得たのだと、頼政を公然と犬四位などと貶める者たちまで居たほどだ。
 そんな中での頼政の翻意は、あまりにも突然であり、朝廷、平氏陣営、畿内一円の武士においてもまさに寝耳に水であった。
 翻ってみれば以仁王の企図が判明した五月十五日は、後白河院が鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷った日であり、数日前に兵を率いて上洛していた清盛が福原へと帰還した日でもあった。清盛が再びみやこへ戻るのは全てが終わった五月二十六日の事である。この絶妙の機会を狙い澄ましたかのような挙兵は、間違いなく頼政の企図したものであり、前述の動向も合わせて、この時点において頼政は完全に平家を出し抜いていた。
 頼政が雌伏の仮面を脱ぎ捨て、王に合流して平家への対立を明らかにした事で、以仁王には摂津源氏という軍事勢力が加担していたことが明らかとなった。王が令旨と言う手段で全国各地の源氏に決起を促していたことからも、既に事態は内乱と呼ぶべき段階にまで達してしまったことを示していたのである。
 これが世に言う以仁王の挙兵。後に治承・寿永の乱と呼ばれることになる天下の大乱の嚆矢となった出来事であった。
 しかし、鮮やかなまでに平家を翻弄しながらも、頼政には予想外の事態がいくつも起きていた。誤算の一つは、行家によって王の令旨の存在が広く知れ渡ってしまったことである。
 全国の源氏にこれを伝える役目を受け、行家は感涙と共にみやこを発ったのだが――彼のかつての住まいである熊野の別当湛増が行家の動向を察知、新宮に滞在していた行家を襲撃したのだった。これによって王の令旨の存在が平家に露見してしまった。
 この令旨こそは今回の決起において最重要機密であり、何に換えても守り抜かねばならなかったものなのである。
 事前に打ち合わせた手筈では、以仁王の呼びかけに呼応した全国の源氏達が一斉に日付を示し合わせ、同時に兵を挙げることで平家の戦力を分散させる。さらに寺社の協力をもってみやこの混乱を誘発させた後、そこに頼政らが精鋭を率いて六波羅を急襲。平家総大将の宗盛以下、重鎮たちを討つというものであった。
 それが行家の不手際で不可能となり、さらに王の意図までも漏れ知られたことから、この時の決起はもはや他に手段なく、追い詰められての苦し紛れのものであった。
 また、以仁王のお考えも頼政にとって誤算の一つであった。
 そもそも王は平家の圧力から逃れるため幼くして仏門に入られ、二度の大乱をひっそりと生き延びたお方であるが、いまでは還俗し八条院暲子内親王の猶子となっていた。
 そんな以仁王が俗世にお戻りなされたのは、やはり皇位継承が悲願であったためである。が、宮中の権勢をほしいままにする平家隆盛の中でそれは難しく、母が女御でもなかったことから、王は長らく親王宣下すら受けることができずにいたのである。
 それでも王は、いつか自らが親政を取りこの国を導くことを夢見て、力なき身の上を嘆いておられた。あるいは、そこに新宮十郎行家らの大望を抱く奸臣が不埒な事を吹き込み、王のお心を乱したことはあったかもしれぬ。
 いずれにせよ、ながらく己が外様とされたことの反動からか、王はあまりにも苛烈であった。
 以仁王は決起にあたり、御自身を「最勝親王」と称して事にあたった。これは臣籍降下の宣下をまるで無視したものであり、今の帝や院に激しい対立姿勢を示したものである。
 そしてまた王が全国に発した令旨は、四百字余りにおよぶ酷く攻撃的で烈しいものであった。清盛をさして国を亡ぼし、百官万民を悩乱するといい、皇院を幽閉し、国の財を盗み、公領を私掠する、帝皇を違逆し仏法を破滅する古代を絶する者とまで、ありとあらゆる罪業を並べ立て糾弾していた。いかに度量の広い清盛入道とても、これを見て憤激せぬはずがない。
 もっともこれはまだ、皇統の中枢より遠ざけられ、若き日々を懊悩の中に過ごされたゆえの怒りと納得することもできる。地方に伏せる者たちの心を奮い立たせ、決起を決意させるにはこれほどの激しい言葉と若き情熱が確かに必要かもしれない。
 しかしその後に続く、清盛に与し、王の令旨に背くものにあっては配流追禁の罪を科すというのは同心を求めるにはいくらなんでもやり過ぎであるし、
『勝功有るに於いては先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり』
 の一文は、どうあっても看過できぬものであった。
 平家の世を過ちと糾弾するのであれば、それを正すべくして行われる挙兵は、あくまで義心によるものなければならぬはずだ。相手の悪行を追及するのであれば、たとえ形の上だけでもそれは保たねばならぬ。そこに対し協力者に報奨を約束することは、道義や道理を二の次とし、報奨のみで動く輩を呼び集めることに等しいし、なにより以仁王自身を同じく、私心にて帝位を望んでいると取られてしまいかねないのである。
 たとえば自分が伊豆に隠居している立場だったらと、頼政は想像する。行家よりあの令旨を伝えられ、その全文を読んで果たして、王のために二心なく決起を決意できるであろうか。平家への不満を十倍に膨らませてみたとしても、王の言葉は危うい誘いには違いないのである。
 ――ましてや、あの聡明な頼朝や、純朴なる義経がそれをどう思うのだろうか。どうにも不安ばかりが頼政の胸を占めていった。
「どうでしょうか、駒王であれば……」
 同じことを考えていたらしいのが、仲家である。彼の弟、駒王丸は木曽にて義仲と名乗り、源氏の末として勢力を広げているらしかった。
「元が自分と同じ熱しやすい性格。まして父や母とも離れ、木曽の田舎で育ったとなれば、中央の政治など知りもしますまい。あるいは王の令旨が己に届いたというだけで感涙し、ただちに決起となりかねません。……行家殿もそれを考えて、まずは伊豆の佐殿の元へと参られたのでしょうが」
 そも、令旨とは皇太子か皇后の立場でなければ発することはできない。親王宣下の無い以仁王がそのような振る舞いに及ぶのは、身分を偽り世を乱すことに他ならなかった。
 王としては己こそが正当なる帝であり、いまの平氏の手による傀儡の帝こそが陰謀によってつくられた偽物であるという主張なのだろうが、強行したとしてどれほどの協力が得られるのか、効果は疑わしい。
 また、この令旨を触れまわる役目を与えた行家に対し、無官のままでは誰も信じぬであろうと王が独断で蔵人の位を赦したことも、頼政には受け入れがたいことであった。官位の勝手をした王が平治の乱の折の藤原信頼の姿を思わせ、またそれに疑念を持たず、ただ感服して平伏する行家に、一抹の不安を覚えたのである。
 果たして、その不安は徐々に的中しつつあることに、頼政は決起の先ににわかに立ちこめる暗雲を眺める思いであった。
 頼政も挙兵にあたり、ただ無計画に動乱の中に身を投じたわけではない。この日に備え様々な手段を講じていた。平家に挙兵の意図を悟られぬよう、徹底して秘密の関係を隠匿したのもその一つだ。
 頼政以下摂津源氏はみやこを守る武士団の要の一角である。それが突如翻意を見せたことで宮中、六波羅は大混乱に陥った。深く信頼し、無二の忠臣だと見ていた頼政が敵に回り、しかもそれは平家の思うはるか以前からのことであったのである。この上には彼の他にも翻意を隠して陣営にあるものがいるのかもしれぬと疑心暗鬼に陥り、平家は不審な動きがないかと自らの軍勢を調べ尽くし、その本心を確かめねばならなくなった。
 また、けして多いとは言えぬものの宮中で検非違使や宮中警護の要所にあった摂津源氏が一斉に姿を消し、さらには大事な兵録、名簿、伝達のための手紙を焼いて行ったことが指揮系統にも大きな打撃を与えていた。兵団と言うものは一朝一夕に用意し動かせるものではない。たとえ兵を千人万人と揃えようとも、個々がばらばらに動いているのではただの烏合の衆。ただ千人の人がいるというだけだ。
 これを命令によって統率し、兵站を行い指揮を伝達して動かすことで、千の兵はひとつの軍団となり、戦略をこなせるだけの戦力となるのである。一旦ずたずたになった編成を組み直し、指揮系統を立て直すには時間が必要であった。それが大きな軍となればなおさらである。
 そしてまた、王に園城寺へと脱出させたのも重要な戦略のひとつである。園城寺は元来、源氏と関係の深い寺であるが、頼政にあってはその関係はさらに一段深い。頼政の叔父にあたる者がこの寺に入って周定坊行延と称し、また頼政の娘が産んだ子はこの寺に入って桂園院を任されていた。摂津源氏とは並々ならぬ信頼で結ばれた寺なのである。
 寺社が平家の専横に対して反発していたことが広く知られる中で、頼政は決起の拠点としてこの園城寺を選んだのにはそうした理由もある。また、寺社は常より法論によって同門や他の山門とも激しく争い、武装した大衆同士の激突も日常茶飯事である。その守りは並の貴族の邸宅などよりもよほど堅い。さらには俗世と隔てられて多くの僧侶が暮らすだけあって、外部を包囲されて隔絶されてもひとつの町として存続が可能なのだ。
 またこの頃、寺社への攻撃は仏罰を招くと広く信じられ、一般の武士は寺社への攻撃をためらう傾向があった。これも頼政の目論のひとつである。こうして園城寺に濠を築き、逆茂木など植えて武装化し、守りを固める手はずであった。
 これに、人知れず六波羅で奮戦した稀代の化狸、団三郎の魅せた大化術や、みやこのなお深き闇に暗躍した藤原摂関家とその守護者紅子、陰陽寮の争いも関与し、時流をつくらんとしていたことは言うまでもない。
 だが、そうしてまで頼政らが腐心し、稼いだ時間は、あまりにも無為に空費されていった。
 五月十八日は、平家が南都北嶺の寺社に使者を派遣して王への態度を調べさせた日であるが、同時に園城寺からも延暦寺、興福寺に向けて援助協力を求める牒状を送った日でもあった。この牒状で園城寺は延暦寺に対しては同じ天台宗の教門に対して呼び掛け、過去の遺恨を捨てての共同を。興福寺に対しては清盛を王法・仏法破滅の首謀者と責め、悪逆の徒を退けることを求めている。
 しかし遠く南都の興福寺がこれに同調し、清盛を「平家の糟糠、武士の塵芥」と評して平家への不満をぶちまけ、共同を示したのに対し、近く北嶺の延暦寺は言わば『分家』の園城寺が、『本家』である延暦寺を並べて車の両輪とたとえたことに不満を露わにし、返牒も返すことなかったのである。ここに前後して、平家より延暦寺に近江米二万石、北国の織延絹二千疋が届けられ、彼らは完全に調略されてしまった。
 さらには、園城寺では大衆を交えた評議が激しく紛糾し、軍略の決定を著しく引き伸ばされていた。頼政が平家への反抗を深く隠していたように、園城寺にも潜む親平氏勢力が密かに行動を開始していたのだ。彼らはいたずらに軍議を長引かせ、頼政が稼いだ貴重な時間を空費させていった。
 以仁王は確かに高潔であり、皇尊のお血筋に相応しい御方であったが、ながらく政の表舞台にあがることなく、世の動静にはけしてお詳しくなかった。王はけして専横とならぬよう、頼政や近臣の意見にも等しくお耳を傾けんとされたが、それは同時に反対を押し切って己が正しいと信じる判断を下すという事に慣れていないことをも示していたのである。
 王は臣下の言葉すべてを等しく取り扱おうとし、実際にそうなされた。それが帝たるものの在り方だと信じておられたのだろう。
 平家に近しい園城寺の僧侶たちはそこに付け込んだのだ。かれらは素知らぬ顔をして軍議に馳せ参じ、あれこれと不確かな情報、定まらぬ言舌を持って王を惑わし、時に犠牲を顧みず果敢に攻めるべきだ、いや六波羅は難攻の地、落ち着いて時を待つのだと正反対の言葉すら弄してまで、軍議を混乱させ、長引かせたのである。
 そうなれば、戦の指揮などしたことのない王は不安に思われ、迅速な行動を軽はずみな短慮であるとお嫌いになり、一所に留まってただ平氏の動向を傍観することを、時流を読み、機の熟すのを待つ良策とお考えになってしまったことも仕方のないことであろうか。
 頼政はこの場において保元の乱、平治の乱の出来事を引き合いにし、六波羅の軍勢がまとまり切る前に出撃し、打撃を与える即時の行動こそが重要であると主張したが――足並みを揃えて動かねばならない園城寺大衆の賛同が得られず、それは退けられてしまった。
 実際に参陣した者達の中には、寡兵で無謀にも平氏撃って出る事は愚策と考える者も多く、南都興福寺の援軍を待ち、一斉に六波羅に攻めのぼるのが良いという意見は根強かった。いかに武装し、日頃他の寺社と闘争を繰り広げているとはいえ、彼らは所詮仏門。荒くれ者に違いはなく、軍事、戦略の専門家ではなかったのである。
 頼政の進言は退けられ、彼は無力感に打ちのめされた。
「――はは、ははは。俺が死力を尽くしたつもりで足掻いて、顛末はこのような有様か。これでは、六波羅に攻め入り、木ノ下を救うなど、まるで夢物語であったな」
 ひとり、伽藍とした本堂で、肩を震わせ老境の父がそう漏らすのを、仲綱はこそりと聞いていた。決起以来、王と共に園城寺にあっては私事を表に出さぬよう堪え、逸る本心を押し殺し、ただ以仁王の忠臣、摂津源氏を率いる源三位頼政となっていた彼が、ついぞ本音を漏らした瞬間であった。
「……なんと愚かなこの身よ。この上は、息子達を巻き込むことなぞなく、我が身を投げ打ち、ひとり六波羅に攻め入るべきであった。いつもそうだ、瑣末なことばかりに頭を巡らせ、俺は本当にしたいこと、すべきことから目をそらしてばかりだ……。
 せめて、せめて宗盛に一当て食わせてでも、ぬえを救ってやるべきだったのだ……!」
 それは――摂津源氏の長老や、源三位の名をかなぐり捨て、素のままの源頼政が一人の男として、最後に叫んだ己の後悔であったやも知れぬ。
 頼政の苦悶とは裏腹に、評議はまるで結論を見ぬままにだらだらと長延びた。秘密裏の決起と造反という、頼政が稼いだ貴重な時間はあっという間に失われ、以仁王達はついに園城寺を出ることのないまま三日もの時間を無駄にしてしまった。
 その間に、平氏は各寺社勢力、また畿内の勢力への調略を終えていたのである。彼らは園城寺の中にこもる勢力がけして一枚岩ではなく、また集まった戦力の中で、まともに戦のできる武士は精々が頼政の率いる五、六○騎余りである事を看破していた。
 園城寺という俗世と切り離された寺社の領地に、こぞって集う反平家の武士や大衆たち――はじめのうちこそその噂に踊らされ、かの地に数千騎の軍勢が集結していると怯えていた平家の者達も、時間と共に園城寺の実態を把握し、徐々に落ち着きを取り戻していったのだ。
 総大将となった宗盛は平家の子息の中から将を選別し、彼らに十分な兵を用意して、己に恥をかかせた摂津源氏頼政への復讐を誓った。
「ふん、弓引きしか取り柄のない摂津源氏の田舎侍め、この宗盛が平家の戦というものを見せてやろうではないか」
 この動きに対し、以仁王は再三に渡って檄文を飛ばし、他の寺社勢力、また近隣の豪族へ応援をあおいだが――延暦寺はむろん、他の勢力も中立を保ったまま、ついに新たな賛同者は現れなかったのである。当初は勢いの良かった園城寺大衆も、潜む親平家勢力の工作で一人また一人と分断され、ついには王と頼政は寺の中ですら孤立してしまったのだ。
 無情に過ぎる時間の中、二十三日の夜になって、ついに頼政は王に進言した。
「かくなる上は、南都へと逃げ伸び、再起を図る他にありますまい。平家に近しき北嶺に比べ、南都は平氏の手の及ばぬところ。時がたてば宮の発した令旨が行家様の手によって全国へと届けられ、各地の源氏が一斉にみやこへと攻め上ってまいります。さしもの平氏といえどもその全てを同時に相手にすれば、隙も生まれましょう。その時こそふたたび兵を挙げるときです」
 六波羅を前に千載一遇の機会を無駄にして、苦渋の決断、血を飲むような思いであった。
 頼政に諭され、ようやく現状を理解して悔しさを露わにする以仁王のお姿を目にしながら、頼政は己の言葉の空虚さに震えていた。南都に逃れての再起など、この場の誰もそのようなこと信じては居ない。
 いや、あるいは王も頼政も、心のどこかでは一分や二分ばかり、そんなかすかな希望を残していたかもしれない。……せずには居られなかったのだ。
 頼政達は僧や郎党、家人のうち老いて動けぬもの、満足に戦えぬものに暇を与えてその場に残し、王と側近を守る精強な衆徒のみを選抜。元々連れ来た五○騎とその随伴だけを伴って園城寺を脱出した。時に二十四日の昼であった。夜明け前に発つ予定のところを、撤収に余計な時間を費やしすっかり日も昇ってしまったのである。ここにも寺内に潜む新平家勢力の工作が見え隠れしていた。
 しかし事ここに至っては夜を待つなどと悠長なことは言っておれず、出立は即座に行われた。以仁王を守りながら、頼政らは一路、南都の興福寺を目指した。
 瀬田川尻を西の山路へと分け入り、笠山越えの難路である。折からこの数日は陰晴定まらず、細雨のちらつく悪天候であった。山越えの道もぬかるみ、馬上に不慣れな王は何度となく馬を滑り落ち、六度も落馬なされた。はじめは己を奮い立たせる言葉を繰り返していた王であるが、半日もするとなぜこのようにとわが身を嘆くお言葉が増え、夜になる頃には何も口にできぬほど疲れ果ててしまっていた。もとより、宮の中でお育ちになった王に長らくの行軍など不可能な話であるのだ。それでもなお、頼政には王を励まし、南都への道を急ぐしかできなかった。仲綱はつねに宮の傍にあって、献身的にそのお身体を支え続けた。
 やがて丸二日、昼夜の行軍を険しい山野に続けて二十六日の朝。疲れ果てた一行がついに山を越え、長坂峠より宇治の里、平等院の甍や川縁の柳を見下ろした時のことである。
「おお、あれに見えるは宇治の川、あそこまで下れば奈良までは半日もかからぬ!」
 兼綱がみなを鼓舞するようにそう言った時。頼政の目は同時に宇治の川を沿う道に兵馬を走らせる軍勢の一団を認めていた。平家の赤旗を掲げ、土を蹴立てて走る彼らは、頼政らが平等院への到達を阻止せんと疾駆しているのである。
 平家の追手を前にして、やにわに皆がざわめく中、鋭い声があたりを打った。
「うろたえてはならぬ! 皆よ! 六波羅の軍勢はいまや宇治に迫っておる! 宇治橋を塞がれてはもはや南都へ下ることも、後に引くこともできぬ! 先を急げ! 後はこの峠を下るばかり、もう一息ぞ!」
 頼政は先頭に立って声を張り上げ、馬を飛ばして峠道を駆け出した。以仁王を囲み守るように仲綱、仲家がそれに続き、摂津渡辺党の五○騎は雪崩を打って山を駆け下る。
 徒歩の郎党達や、険しい山道をなお同道してきた剛力の荒法師たちもそれに続いた。彼らもまた頼政らと過ごした時間はわずかながら、生死を共に誓い、平家へ一矢報いんとする同志であったのである。
「誰一人、置いて行ってはならぬ! 隣のものを助け、駆け乱れることなく先を急げ! いずこに敵兵が伏せているとも限らぬ、気を抜くな!」
 最後まで供に従わんとする一門を率い、老将は走る。我が子たちの手を引いて、死地を突破せんとする者の気魄であった。

 


◆ ◆ ◆

 


 辛うじて、宇治橋へと到達したのは頼政らが先であった。一人も欠けることなく険しい山を下りきった彼らは、直ぐさま人馬の足音を百雷のごとく轟かせて橋を渡り、宇治川の西岸に源氏の白旗を掲げ、陣を張ったのである。
「残さず橋板を剥がせ! 橋を断って六波羅の兵を押し留めるのだ!」
 折からの悪天候、宇治川の水は増水していた。濁流を巻いて流れる川はそうたやすく渡れるものではなく、周囲に馬の渡れる橋はない。橋桁を残して板を引き剥がし、それらを濁流に放り込み、橋の半分ほどを破壊したところで、東方に鬨の声が湧き起こった。
 平家の赤旗をはためかせる、平重衡、維盛らが指揮する五〇〇騎ばかりである。
 このとき、源三位頼政は御歳七十七。長絹の鎧直垂に科皮威の鎧を着、腰にはかつて帝より拝領した黒漆塗糸巻拵の大太刀、三尺五寸五分の獅子王を佩いて、手には最も馴染む重藤の弓。その日を最後と覚悟の上か、敢えて兜は付けなかった。
 嫡子仲綱もまた、赤地錦の直垂に黒糸威の鎧を着けてその隣に並ぶ。彼も弓を強く引こうとし、兜を着けることはしなかった。彼らが率いるは摂津源氏渡辺党の精鋭五〇騎ばかりと、園城寺の悪僧ら。
 かくして宇治川の対岸を挟み、ここに合戦の火蓋が切って落とされた。
 ざあと東岸から矢が射かけられる。平家の軍勢は数を頼みに頼政らを押し潰さんとしたが、肝心の橋が落とされているので思うように近づけぬ。橋の上では十分な兵量を振るうこともできず、ただ一騎打ちの競り合いとなる。また、大雨で増水した宇治川の対岸まで矢を射通すのは並大抵のことではなく、届いても精々へろへろと楯をつつくばかり。
 一方頼政らの陣営は、主に負けず劣らずの剛弓を誇る渡辺党の精鋭である。授、省、続らの射た太矢は、対岸までやすやすと届き、鎧をもっても止めることはできず、楯すらも深々と貫通してのけた。防ぐことかなわぬ渡辺党の弓に、見る間に東岸の陣の一角が崩れてゆく。
 さらにそれに呼応して弓を射るのは、筒井の浄妙明秀、五智院の但馬、大矢俊長といった園城寺の豪傑である。彼らは名のある武者にも負けず劣らずの剛力と、鍛えられた業前をもって、橋に取りつかんとする平家の兵を射落とした。彼らは橋桁の上を飛び走り、飛び来る矢を薙刀でもって次々叩き切り、太刀を振るい礫を打ち、組打ちを挑んでの大暴れを繰り広げた。それを見た渡辺党の者たちも、我も我もと壊れた橋の上を駆け、敵将の首を討ち、あるいは強敵を組み合って、もろともに川に飛び込むものも居た。
 頼政以下五○騎はひとりたりとて弱兵はなく、一人でもって五人を相手し、十人を屠る活躍をしたが、孤軍奮闘する頼政らに対し、時間と共に宇治川東岸の平家には増援が到着し、その数は五倍にも十倍にも膨れ上がる。東岸を埋め尽くす平家の赤旗に、戦の趨勢は徐々に敵陣に傾いてゆく。
 それでもなお、頼政らは奮戦した。死を顧みることなく、生の色を請うことはない。仲綱をはじめ兄弟たちは勇ましく鬨の声をあげ、矢尽き早に弓を射る。中でも源大夫判官と呼ばれた兼綱は白馬を駆って戦場を縦横無尽と走り回り、弓を射ればその鋭さはかの八幡太郎義家と見まごうばかりであったという。
 そして。なによりも凄まじきは、七十七の老境にありながらなおわずかの衰えもみせぬ頼政の弓である。むしろこの場においてその業前はいよいよ冴え渡り、神懸かりとも思われるほど。
 その力強さにおいてはかの為朝、あるいは渡辺党の者たちが射る剛弓に及ぶものではないが、神速にて弓弦を弾いて放たれるその狙いの精確さたるやまさに鬼神の如し。ひょうと鋭く空を裂く風斬りの矢羽根が鳴れば、鎧の隙間、脚の付け根、手首、首筋を射抜かれて平家の郎党達が次々に川面に落ちてゆく。はるか対岸の岸より、戦場の全てを見通して放たれる弓は、頼政が弓弦を鳴らすたびに戦場より確実に一人の命を奪った。
「こ、これは……!」
「頼政……源三位頼政か!」
 渡河を試みていた騎馬の一団がざわつき、足並みを乱す。すかさずそこに立て続けの五矢を射かけ、頼政は一人でもって彼らを押しとどめた。落馬した者たちが濁流の中に消えてゆく。
「ええい、何をしておる! あのような老いぼれに良いように掻き回されおって!」
 敵陣にて憤るのは平家の大将、重衡、維盛の二人である。彼らはいずれも二十歳を過ぎたばかりと若く、父や祖父のように戦に出たことのない者たちであった。平家がこの国を支配し、繁栄の後に育った、生まれながらの平家。ゆえに繰り返された戦乱、歴戦の中で鍛え上げられた武者達の戦いなど、目にした事がなかったのである。
「構わぬ! 射よ! こちらには一〇〇倍の兵がおるのだぞ! 押し潰してしまえ!」
 兵たちの動揺を抑えようと、重衡が川縁まで進み出る。それに続こうとする維盛は、大きく腕を振って郎党たちに進軍を促した。
(清盛入道よ。その子らが、お主の作りたかった世に生まれた者たちか)
 わずかな郷愁を胸に、頼政は大きく弓を引き絞り、力の限りに矢を放つ。一際鋭く放たれた白矢は、平家の大将たちの頬のすぐそばを掠め、近くの柳の幹を揺らす。
 ぱしぃん、と柳の葉を揺らし深々と突き立つ矢に、二人の動きが止まる。
 刹那。頼政は抜く手も見せぬ神技で、二射を放っていた。ほぼ同時に放たれた征矢が、彼らの兜の星を打ち、鍬形を弾き飛ばす。兜を失い、二人は面白いように狼狽した。
「ひ、ひぃ!? こ、このようなところまで、矢が、矢が!」
「ぬ、鵺じゃ……鵺退治の頼政じゃ!」
 大勢の護衛に守られ、すごすごと戦場の後ろへと下がってゆく二人の若者。頼政はただの一矢にて、敵の大将とその近臣数十名それぞれを戦場より引き離したのである。
 無様な姿を晒す重衡、維盛を見降ろし、頼政はふと口元をゆるめた。
 いまや敵陣には動揺が広がっていた。平家の赤旗がおののきに震える。
 辟邪の武、摂津源氏、源三位頼政。
 かつて、二度に渡り宮中に現れては、みやこの夜に空を舞い、不気味な鳴き声にて帝を脅かしたばけもの――鵺を、黒雲の中よりその弓で射落とした英雄。
 この宇治川を挟み、鵺退治の英雄と対峙していることに、ようやく彼等は気付いたのである。
 やにわに浮足立った平家の陣へ、頼政はおもむろに鏑矢を番え、撃ち放った。仲綱、兼綱もこれに続く。ひょおおうと鳴り響く鏑の音に、たちまち陣の一角が崩れ、逃げ惑う兵たちが宇治の川面へと落ちてゆく。
「――役に立ったな、あの茶番も」
 ふと可笑しくなり、頼政はいつしか笑っていた。
 三十年あまり、ずっと怯え、悔いながら装ってきた虚構の畏怖である。それがなお、こうして窮地に陥った頼政らの力となり、押し寄せる敵を食い止める役に立とうとは。
 頼政はいよいよ高く声を上げた。
「皆、奮起せよ! 敵が数千とて何するものか! この頼政率いる摂津源氏一門、一人たりとて弱兵はない! 我ら一人が十矢にて百の兵を討ちとってくれん! それ、十度も射かければ敵は総崩れ、そうあれば間もなくここに駆け付ける南都の援軍と合流し、ふたたびみやこへと攻め登るときだ! 平家の大将、重衡、維盛はあの向こうぞ、この場にて討ち取り、王に我等の武勇を示す時よ!」
 白旗の下、朗々と響く老将の声に、おおっと鬨の声が重なり響く。彼我百倍の戦力差に徐々に橋の上を追い込まれ、じりじりと岸へ追い詰められながらも、陣営の士気は高く、戦の吠え声はいつまでも響かんばかり。
 皆を鼓舞せんと声を枯らさんばかりに叫び、頼政が射る弓はなおも鋭く敵陣を裂いた。橋げたを超えてくる郎党の脚を撃ち抜き、息子たちを狙い撃たんと弓を引き絞ったその右手を貫く。矢が尽きれば郎党より箙を受け取り、倒した平家の骸から奪ってまた射る。その全ては一矢も損じず、力の限りに射続けて。一体幾百の敵兵を射抜いたか。
 眼下は増水する宇治川、落とされればたちまち鎧が重しとなって沈み、濁流に飲み込まれてゆく。狙い過たず急所を射抜く源三位の弓に助けられ、五十と五千の戦いは二刻にもわたって続いたのである。
 しかし。長らく善戦し、持ちこたえていた頼政達であるが、それでも多勢に無勢。園城寺より夜を徹しての山越えの強行軍の疲れもあり、ついには一人、また一人と討ち取られ、その骸を河原に晒してゆく。射落とされた郎党の死体が橋げたに引っ掛かり、頭を割られた悪僧が濁流の底へと飲み込まれてゆく。夥しく流された血で宇治の川面はほの赤く染まり、その激戦を物語るようだった。
 戦局を変えたのは、平家の郎党、足利忠綱の進言であった。橋を挟んでの激戦に攻めあぐねた者たちが、迂回路を探そうとするのを押しとめ、馬を筏と組んで激流を堰き止め、濁り荒れ狂う宇治川の流れを渡河したのである。
 新手の坂東武者三○○騎がこれに続き、ついに頼政達は橋のたもとの陣を追いやられ、平等院へと退却せざるを得なくなった。これを見て平家の知盛が全軍に渡河の号令を出し、数千の軍勢は雪崩を打って激流に飛び込んだ。
 手勢を半減させながらも、平等院門前の戦いは乱戦となった。頼政は王を逃がすべく先行させ、自分はその場に踏みとどまって、平家の大軍を押しとどめた。帝より拝領した黒漆塗糸巻の大太刀、獅子王を抜き放ち、押し寄せる兵を片端から斬って捨てる。
 授、省ら長年の忠臣と共に防ぎ矢を雨と嵐と射かけ、大太刀を馬上より振るって文字通りの獅子奮迅、雲霞のごとき平家の赤旗に抗したのである。
 だがもはや、こうあっては戦の趨勢は決したも同然であった。
「父様、どうやらこれまで。――お先に参ります」
「親父殿。今日までありがとうございました。思えば幼きあの日、親父殿に拾って頂いて以来、この兼綱、碌な恩返しもできずにおりましたな。……いまこそその時です。では!」
 仲家は郎党達と共に散々に戦い、幾多の敵を討ちとるもついに討死。兼綱もまた、父を守らんと単身馬を駆って敵陣に吶喊し、最後には平家の猛者十四、五騎と折り重なるようにして命を落とした。
 授、省、仕、与、唱、続といった渡辺党の名だたる猛者も、次々に討ち取られていった。
 皆、自分にはもったいないほどに強く、忠義にあふれ、最後を共にするに相応しい、素晴らしい部下たちであったと頼政は思う。
 そしていまや門は破られ、押し寄せる攻め手は平等院の中へと押し入ってきていた。以仁王を探して駆け回る平家の郎党たちの声を背に、摂津源氏の長老は一人、脚を引きずって平等院の奥へと向かっていた。
(……これまでか)
 老境にあって険しい山野を越えて、ほぼ一睡もないままの強行軍。そこから半日余りの激戦を戦い抜いて、幾百の矢を射たとも知れぬ。頼政もまた、激戦の中で矢をうけ、全身に傷を負っていた。中でも酷いのが、左の膝頭を貫いた矢によるものである。
 もはや彼の身体にはわずかな気力すら残っておらず、後は死してなお恥を晒すことなく、静かに自害をする心算であった。
「父上」
 か細い声が聞こえる。振り向けば、釣殿の下に満身創痍の仲綱の姿があった。額には脂汗を浮かべ、顔は蒼白。腹と肩の傷からはどくどくと血が溢れ、もはや息を繋いでいるのが精一杯と見えた。それでも仲綱は、懸命に笑顔を作り、父に微笑むのである。
「長い間、お世話になりました」
「仲綱……」
 頼政は喉を震わせる。たとえいくつになっても己の息子だ。その死が悲しくない訳がない。傷の痛みも忘れ駆け寄ろうとした頼政だが、仲綱は震える手でそれを押しとどめた。
「後悔など、ありませぬ。……摂津源氏の誇る古今無双の武勇にして、宮中にあっては歌壇にその人ありと知られた、源三位頼政の息子として生き、こうして父上のために戦って死ねたこと、なによりの誇りに思います」
 息をしているのも辛いだろうに、一息にそう言いきって、仲綱は手にした短刀を己の頸へと突き突ける。
 頼政はそれを、ただ、呆然と見送るばかりであった。
「皆、先にゆきました。決起に応じた者は私で最後。……父上、どうぞ、この上は父上の思うまま。一人の武士、源頼政として、父上の本心からのお望みを、果たしてください」
「な、仲綱、お主は……!」
 飛び出さんとした頼政の前に崩れた釣殿の梁が落ちる。煙を上げて燃え始める梁の向こうで、壁を穿つ轟音とともに柱が揺れた。
「どうか、木ノ下を――救ってやってください」
 最後まで、笑顔で言い切って。仲綱は己の手で首を掻き切り、その場に事切れた。その姿もすぐに煙に飲まれ、見えなくなる。
 唇を噛み千切り、頼政は叫び出したいのを必死に堪える。
(ああ)
 残された頼政は一人、天を仰ぐ。
 見上げた向こうでは、以仁王が側近と共に立て篭もっていた堂が煙と炎を上げ始めていた。如何に若さに任せて苛烈にあろうとも、やはり貴き皇の血筋にお生まれになったお方。王のお優しき心は、これ以上の戦乱を前に耐えきれるものではなかったのだ。
「――これで残るは、俺一人か」
 ひとり呟き、頼政が振り返る先。
 赤旗を翻し、雲霞のごとく押し寄せる平家の軍勢が、平等院の門を押し破ってなだれ込んでくる。雷鳴のように轟く兵場の足音、鼓膜を震わせる鬨の声。閃く太刀、薙刀、そして雨と放たれる矢。
(いや)
 頼政は残り少ない矢を弓に番え、彼らに向き直る。疲れ切った身体は、朝から晩まで、生涯を通じて最も繰り返した動作を、自然と反復する。
 終わりではない。これで最後であるからこそ――頼政にはすべきことがある。
 わずかに口髭を震わせ、老将はきっと目を見開く。その腰に大太刀獅子王を帯び、千を超える軍勢に、たった一人弓を引いて、一歩も下がることなく対峙する。
「遠からんものは音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 大江山にて鬼を討ち、その名を知らしめた源頼光より続く辟邪の武、摂津源氏、源三位頼政! 参る!」
 空を包む黒雲の下、大音声を響かせて。
 ぎりと力の限りに引かれた弓が、鋭く放たれ――平家の陣へと叩き込まれた。

 


◆ ◆ ◆

 


 雨が、降っていた。
 ざあざあと、ごうごうと、うねる濁流がどこまでも、どこまでも、宇治の大地を轟かせる。荘厳な平等院の威容は、血と煙と戦の土塵にまみれ、汚れていた。
 その汚れを押し流さんばかりに、雨が降る。曇天の中渦巻く黒雲が、風をもって大地を薙ぐ。どこまでも灰色の景色の中を、雨が激しく打ちすえていた。
(――なんだ)
 鼻をつく臭いに頼政はぼうと目を開けた。燃え盛る堂の煙が、雨の中で燻っている。
 酷く全身がだるい。手足がまるで動かず、目玉を動かすのも恐ろしく億劫だ。腹から下がやたらに熱く、脈打つように蠢いている。自分の転がる水溜りがほの暖かく、やけにそこに浸かっているのが心地よく感じられた。
 ちらと脇を見れば、切っ先の半ばほどで折れた獅子王が無惨に転がっている。帝よりの名誉も、辟邪の武の名誉も、もはや全てが潰えていた。
(どう、なった……俺は)
 負けたのか、と口にしかけ、それ以外にどんな結末があるのかと、思い直して一人自嘲する。
 いや、もうその苦笑も声になってはいなかった。胸を動かすたび、頼政の喉からはひゅうひゅうとか細い息が漏れるのみだ。
 ぽたり。頼政の頬に雨雫が垂れる。
 それが妙に暖かい事を不思議に思い、頼政はようやく、己の片目が空いていない事に気付いた。熱をもった眼窩には、何か硬いものの感触がある。
 どうなっているのかは分からないが、あまり直視したくない状態になっているのだろうと、他人事のように理解した。
 そして。ちょうど見えなくなっていた死角に、小さな影がある事にも気付く。
 それは黒髪の、まだ幼い少女のものだった。着崩した墨染の衣の下に全身を膏薬や包帯に塗れさせ、声を枯らして懸命に頼政の名を呼び、その肩にすがって必死に揺すろうとする。
 彼女の身体が陰となり、頼政の顔には雨が降り注いではいなかった。かわりに頼政の頬に落ちる雫は、見開いた娘の目からこぼれ落ちる、大粒の涙だ。
(――良かった)
 その姿を認め、頼政はわずかに微笑んだ。実際には口元がほんのわずか、動いただけだったが。できることならその身体を抱きしめ、声をかけてやりたい。そう思うが、もう自分の身体が自由にならぬことを知り、頼政は再度吐息する。
(無事だったのだな、ぬえ)
 焦点のぼやける瞳が、一瞬だけ像を結ぶ。そこには泣き喚く、小さな少女の姿。
 彼女は、歯を食いしばり、唾を飛ばして、叫んでいた。
「馬鹿だ、大馬鹿だよ、頼政はっ!」
 ごうごうと唸る風の中、少女の慟哭が響く。
 もはや命を終えようとしている男の隣に、ただただ、すがって哭く無力な姿で。
「わたしは鵺だ! たくさん、たくさん人間を殺した、正体不明のばけもの、鵺なんだぞっ!!」
 尖った牙を剥きだし、ぬえは啼く。悲しみと苦痛を叫ぶ声で。
「妖怪、妖怪なんだっ。人間なんかじゃないのに、だから、わたしは、何されたって平気だったのに! なんで、頼政が、こんな、事のためにっ……!!」
 いつまで、いつまでこんな事をと、泣き叫ぶ。
 ああ、ああ。この娘のどこが妖怪だ。どこがばけものなのだ。
 こんなにも無力で、一人哀しく啼くだけの、孤独な少女ではないか。
(すまない)
 頼政の謝罪はなんのためのものであろう。
 彼女を置いて先に死ぬことか。宮中の陰謀に少女の運命を狂わせてしまったことか。彼女を口実に争乱に身をゆだねたことか。それに巻き込み、むざむざと殺してしまった一門、息子達への悔恨か。
 あるいは、ついに勇気を出せぬまま死んでゆくことか。
「――ぬえ」
 最後の最後、残るわずかな力を振り絞り。震える唇に、わずか、小さな言葉を乗せて。頼政は力の入らぬ手で、ぬえの小さな手のひらを取る。

埋木の 花咲く事も なかりしに

 頼政の意図を察し、ぬえははっと目を見開いた。冷たく凍えた紅い唇を震わせ、言葉を紡ぐ。

「……身のなる果は あはれなりける

 かすれた少女の声が重ねたその返歌は、果たして、頼政の想いに叶っていたのだろうか。
 頼政はただ、にこと口元を緩め、ぬえを見。
「どうか――幸せに、なってくれ」
 最後に、そうとだけ言葉を残し。
 摂津源氏の長老、源三位頼政は、その波乱の生涯に幕を閉じ、息絶えた。
 あとはただ、ざあざあと激しい雨が降り続き、激しい濁流の音が渦巻くのみ。
 事切れた老人の身体は見る間に冷え、強張って色を失ってゆく。これまでただひたすらに生き続け、その最後に死力を振り絞って戦いぬいた事で、彼の命は灰も残さず燃えて尽きていたのかもしれぬ。
 物言わぬ骸の傍らで、ぬえはただ、肩を震わせ、俯いていた。
 雨が激しく打ち据えても、押し寄せる突風に煽られても、なお、ただ、ただ、じっと。
 そして――どれほど時が過ぎただろうか。やおらその場を立ち上がったぬえは、紅く腫れた目元を激しく擦り、震える口を大きく広げ、べえと舌を出して叫ぶ。
「――っはッ!!」
 眼の前で動かぬ、冷たき頼政の骸に見せつけるかのように。
 ぬえは震える声で笑いを挙げた。
「ばぁーーーーーーーーーーーーーーーーーっか! なぁに言ってやがんだ。人間めっ!
 ざまあ見ろっ! ちょっと弱ったふりしてやったら、あっさり絆されやがって! っは、このわたしを誰だと思ってる!? 平安のみやこに君臨する大妖怪、ぬえ様だぞ!? わたしが本気でお前たちのことなんか、想ってたわけないだろうがっ……!」
 大きく手を振り、雨雫を飛ばし。何度も何度も、必死になって顔を擦り、後から後から濡れる頬をぬぐって、ぬえは叫ぶ。哀しく、悲しく、鳴くように叫ぶ。
 うらなく片恋に、ただひたすらにその身を焦がし。
 大きく両手を広げ、吹き付ける雨に顔を晒して、天を見上げ、哄笑と共に叫ぶぬえの姿を、頼政のもの言わぬ眼窩は、ぼうと見上げていた。
「いい気味だ人間ッ、そのまま、そこで、朽ちて死んでいくがいいッ! ああ、これでやっとだ! ようやくだ! お前に射られたあの時の恨み、これでようやく晴らしてやったぞ!!  もうお前らのことなんか知るもんかっ! 家族ごっこもお終いだ!
 みろ、これでわたしは自由だぞ、頼政! お前はここで、おわりだがなッ!! ははっ、あははははっ!! あーっはっはっはっはッ!!」
 ああ。
 なんと哀しい声だろうか。
 天を仰ぎ、叫ぶ少女の頬を――隠しきれぬ光るものが伝う。
 ざあざあと空に渦巻く黒雲から雨が注ぎ、たぎる炎とぶつかり合う。燃え落ちる堂の煙を背に、ぬえはいつまでも笑い続ける。悲しく、哀しく、寂しく、声を震わせて。
「……おい、娘」
 そんなぬえに声をかけたのは、平家の郎党達だった。陥落した堂の中にあるはずの、以仁王の姿が見えず、なおその行方を捜索していたのだ。彼らは笑うぬえに不審がりながらも、雨だまりに倒れる頼政の姿を認め、敵方の大将と知ってその首を獲りに来たのである。
 鵺退治の勇名ばかりが独り歩きする中、彼等の思い描く英雄の姿は見上げるような偉丈夫であった。泥に塗れ、一人倒れるこの哀れな老人が摂津源氏の長の源三位とは思えず、ついその骸を見逃していたのである。
「娘、聞こえて居らぬのか、退け」
 郎党のひとりが応えの無いぬえに近づき、その肩に、乱暴に手をかける。敵軍の大将である頼政の傍にうずくまって動かない不審な娘を、邪魔だと思い近づいたのだろう。これは大手柄だと頼政の骸に群がる彼らに、ぬえは一言をもって報いた。
「――五月蠅い」
 ぎろりと。爛々と血のように輝く赤い眼を見開き。ぬえは地に転がっていた獅子王の切っ先を掴み、その端をもって男の頸を深く斬り裂いた。
 頸動脈からぶつりと血を噴き出させ、白目を向いた男の身体が横倒しに倒れてゆく。
「な」
 驚愕に眼を見開く郎党達。ぬえはそのまま、伸ばした指先から赤黒い鏃を彼らに向けて浴びせかけた。男たちの悲鳴が上がる。顔を押さえ、腹を押さえ、全身を蝕む呪詛に暴れ、のたうちまわる男達の絶叫に――何事かと周囲から平家の者たちが駆け寄ってきた。
 それらを冷たく睥睨し、ぬえは地面をけって空に飛び上がった。その背中から、三対左右非対称の赤と青の羽根が飛び出す。
「これ以上、私の目の前で、その汚い面を見せるな」
 ぬえは頼政の矢筒から引き抜いた矢を、深々とその腕に尽きたてる。流れ出すぬえの血が呪詛となって、少女の憎悪を膨らませ、幾千幾万の鏃となって天を覆い尽くす。
 君が為射る、命限りに。
 この大嵐の空を埋める雨粒よりもなお、なお多く。天が地面に叩きつけられるかの如く、降り注いだ呪詛の鏃は。
 その場にいたすべての者たちを、区別なく貫き、射殺した。

 ――恨弓「源三位頼政の弓」。

 これが。これこそがあの血弓だ。伝説の、鵺を射たあの弓だ。
 この国で最も優れた腕前を持ちながら。英雄に憧れ、一門郎党を守るために苦悩し、ついにその願いをかなえることができなかった男の矢だ。
 ずきりと、ぬえの腹で傷跡が痛む。宗盛達に付けられた傷ではない。そんなものはもう全て癒えていた。邪魔になった膏薬と包帯を引き剥がし、豪雨の中にぬえは叫ぶ。
 正体不明の妖怪、鵺を傷つけることができるのは、後にも先にもあの矢、源三位頼政の弓だけだ。それ以外の全ては誰も、この身を射ることは叶わない。
 頼政の他には、誰もわたしを射殺すことなんてできやしない。
 ぬえは怒りと激昂のまま両手を握りしめ、ありったけの力を注いでこの地を呪った。彼を踏み躙り、寄ってたかって殺した奴らを、残らずくびり殺すために。
 阿鼻叫喚の怨嗟と悲鳴の中、ぬえの放った万を超える呪詛の鏃が、平等院にひしめく平家の武者を串刺しにする。豪雨のごとき鏃はとどまることなく、彼等の身体が微塵に砕けるまで矢が撃ち込まれ、なお止まらない。
 黒雲渦巻く空の上、荒れ狂う雷鳴に身を翻してぬえは吠える。
 ひゅおう、ひゅおおおぅ、哀しき虎鶫の鳴き声が荒天の下にこだまし、黒雲が少女の身体を覆い隠す。
 響く雷鳴が閃光の中に浮かび上がらせるのは、
 ああ、頭は猿。手足は虎。身体は狢。尾は蛇。


 言葉にするも恐ろしき、ばけものの姿。


 この日。
 宇治の橋に現れた恐ろしき怪物と、平等院を汚した夥しい血の痕を記した史書は残されていない。歴史に残されるのは、寡兵ながら勇敢に戦った頼政以下の摂津源氏渡辺党の奮戦と、彼等の自害の顛末のみである。
 それがけして知られてはならぬ真実であるゆえ、人の目に触れぬよう厳重に覆い隠されたのか。源三位頼政にまつわる正体不明の妖怪を見定めること叶わなかったゆえ、触れることなく放置されたか。
 ――あるいは、そのようなもの、はじめから無かった幻想であるのか。

 それを、今となっては確かめる術はない。

 

 

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